著者
クロス ロバート
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.13, no.2, pp.89-115, 2010-12

シャーム・ベネガル監督のデビュー作品である『Ankur/(邦題)芽生え(1973年)』は、インドの芸術映画の功績である。この物語は、インド初代首相であるジャワハルラール・ネルーのリベラルな人道主義的イデオロギーを、ベネガルが終生信奉していることを明らかにしている。非宗教的で、平等かつ近代的な、新しい独立国家インドを創出するという、ネルーの壮大なプロジェクトは、不可触民や女性の権利を保護することを目的にした社会改革や、近代的なインフラを整備するための技術的な戦略、若い世代をはぐくむ教育的で文化的な活力を含んでいた。しかしながら、ネルー時代(1947年〜64年)の業績は一様でなく、ネルー自身の残したものについては論争がある。『芽ばえ』のイデオロギー的背景にあるのが、後に失敗に終わる「ネルー主義のプロジェクト」のこの初期の期待である。ベネガルは、インドの社会を変える最大の希望は、女性の手の中にあるとするネルーの基本的な信念に共感している。そのため、『芽ばえ』の主人公は、非抑圧的階級である不可触民であるラクシュミであり、物語は、封建的で家父長的な抑圧にもかかわらず、彼女が自分の能力を高めていくというドラマになっている。本稿は、『芽ばえ』が、ベネガルがネルー時代の失敗を認めると同時に、インド社会の再生のためには、それでもなおネルー主義のイデオロギーが最善の方法である(少なくとも映画が公開された1973年時点では)と信じていることを表現していると主張する。したがって、本稿で呼ぶ「ネルー主義の女性」である、ラクシュミが象徴する人物は、ネルーが1947年に構想した、非宗教的でより公正で進歩的なインドのための、ベネガルが抱く指導者像である。
著者
クロス ロバート
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.14, no.2, pp.209-233, 2012-01

1947年のインド独立後の数十年間、インドにおけるドキュメンタリー映画製作は、ジャワハルラール・ネルー首相の国家建設プロジェクトの代名詞となった。ドキュメンタリー製作者は、製鋼所やダムなど当たり障りのない映画を作り、カースト制度や不可触賤民など議論を呼ぶテーマを避けてきた。その結果、インドにおけるドキュメンタリーは厳しく批判される分野となった。しかしながら、1980年以降、アナンド・パトワルダンらの若い映画製作者が、現代のインド社会が直面する差し迫った社会問題に関心を持つようになった。最近では、新興世代の、その多くがパトワルダンに影響を受けている映画製作者が、カースト制度や不可触賤民などのインドの負の側面を観察することに乗り出した。ラジェシュ・S. ジャラ(1970年生まれ)は、経済大国、現代インドが抱える社会的・文化的問題を調査し報道しようとする、若手監督世代の一人である。ジャラの受賞作品「火葬場の子供たち(2008)」は、インドの最も混雑する火葬場である、マニカーニカガットで死体を火葬させられるヴァラナシのドムのコミュニティの不可触賤民の子供たちの生活を描いている。本稿では、ジャラがどのようにして映画を製作するに至ったのかを考察し、無力なコミュニティについて記録することによって生じる道徳的含意を検討する。
著者
Cross Robert クロス ロバート
出版者
同志社大学言語文化学会
雑誌
言語文化 = Doshisha Studies in Language and Culture (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.11, no.4, pp.493-514, 2009-03-10

論文(article)The 2001 Bollywood film Lagaan is a parable of the fall of the British Raj that unfolds in the drama of a cricket match between colonizers and colonized. The protagonist, an Indian villager named Bhuvan, embodies the iconicity of the Indian cricket star Sachin Tendulkar and the nationalist and inter-communal ideology of Gandhi. Set at the end of the 19th century, the deeper discourse of the film constructs an ideal post-Independence 'India' in which Gandhi's ideas, far from dying with his assassination and the horrors of Partition, have been fully implemented in the imagined new order. The fantasy of this Gandhian idyll, however, is problematised by the film's treatment of the non-Hindu minority communities-the Muslims, the Sikhs and the outcaste Dalits-particularly when considered in the broader context of the rise of Hindutva fanaticism and communal violence in present-day India.アカデミー賞にノミネートされたボリウッド映画『ラガーン』(2001)は、19世紀末、植民者のイギリス人と被植民者のインド人との間で行われるクリケットの試合を軸に、ガンジーの理想とした異教徒間の調和を掲げる「インド」が、一人のインド人青年によって建設されていくドラマを描いている。しかし作中の、民族間で団結してイギリスに立ち向かった「インド」においても、非ヒンドゥー教徒のマイノリティに対する描写に問題が存在する。
著者
クロス ロバート
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.10, no.4, pp.575-596, 2008-03

フランスの映画監督ジャン・ルノワールによって映画化されたルーマー・ゴッデンの小説『河(The River)』は、植民地社会に対する西洋帝国主義的態度が再確認できる、インドへの微妙なオリエンタリスト的イメージを有している。本稿では、ルノワールが西洋の観衆向けに用いた手法を分析すると共に、インドに対するイメージを固定化するオリエンタリスト的想定とはどのようなものか検証する。