- 著者
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バトラー キャサリン
田中 美保子
香川 由紀子
- 出版者
- 東京女子大学
- 雑誌
- 東京女子大学紀要論集 (ISSN:04934350)
- 巻号頁・発行日
- vol.70, no.2, pp.131-156, 2020-03
シリーズ作品を書くことには様々な難しさがある。とりわけボストンの「グリー ン・ノウ物語」("Green Knowe" books)シリーズのように、最初から計画されていたのではなく、成功したため、もともとは独立した作品からシリーズになったものはなおさらである。おそらく最も厄介な問題は、続編に前作との同一性と相違性という二つの相反するものが求められることをどう乗り越えるかであろう。一方、作者は、自分も読者も飽きないように、パターン化するのを避ける道を探る。本稿ではこの問題を「グリーン・ノウ」シリーズに照らして考える。特に、シリーズを通して見られる、文学ジャンルの変遷をたどることにより、ボストンの多彩さと、今まで明らかにされてこなかった技巧の様相を明らかにすることが可能である。ボストンは「グリーン・ノウ物語」で、シリーズであると意識させ続ける多くの方法をつくり上げた。まず、第一に、シリーズとしての同一性の要となるのは無論、6作品の舞台でありタイトルにもなっている館である。館は、単なる舞台という以上に、シリーズを通して様々な形で繰り返し現れる不安に対する心の拠り所、という役を務める。グリーン・ノウはいくつもの歴史をその中に抱く場所として描かれる。いわば時の貯蔵庫であり、物語と登場人物がほとんど自由にその中を行き来することができる。繰り返し登場する人物も、同一性維持のために重要な役目を担う。主には6作品中5作品に登場するオールドノウ夫人だが、主要な役割を4作品で果たすトーリーと3作品で果たすピンも少なからぬ役目を担う。他にも大勢が姿を現すか、もしくは、回想や昔話、会話を通じて繰り返し登場する。このように、人物だけでなく物や場所を再登場させることで、シリーズの世界の緊密さと堅固さが強調されている。一方、設定、テーマ、登場人物という点で「グリーン・ノウ物語」の同一性を維持しながら、ボストンが変化を取り入れていることも同等に見逃せまい。先に述べたように、実は、シリーズ全6作全てに登場する人物はいないからである。グリーン・ノウは常に主要な舞台に据えられているが、作品が焦点を当てる所は、その土地の中や周辺の特定の場所、すなわち、館、川、庭、トーズランドの茂み、もつれ島へと移り変わる。もう一つ、変化が取り入れられているのは時間である。言うまでもなく、作品は館の歴史上の様々な時代と関わる。主として現代、17世紀後半と18世紀、そしてロジャー・ドルノーのいたノルマン征服後の時代である。さらに、季節の変化もこのシリーズの特徴の一つで、第5作までで、冬(『子どもたち』( The Children of Green Knowe(1954)))春(『煙突』)、夏(『川』 と『お客さま』)、初秋(『魔女』(An Enemy at Green Knowe(1964)))を辿るが、ノルマンの少年ロジャー・ドルノーの視点で語られる最後の作品『石』(The Stones of Green Knowe(1976)) では、1年かけて館が建てられるのに合わせて、この季節の巡りが反復される。さらに、巻が進むごとに、描写される現代の時も先へ進む。また、登場人物の年齢にも重要な変化が明確にある。このように見てくると、ボストンは、22年をかけて書いた「グリーン・ノウ物語」6作品中で、同じ声、同じ館の物語としての安定性を維持しつつ、多様な文学ジャンルを用いて変化を付して、各巻ごとの魅力を創出していることが明らかになる。ボストンは、植栽やパッチワーク、いずれの芸術活動においても、変化と安定のせめぎ合いに鋭い感性を見せた芸術家であるが、創作活動においてもまた、同様の感性が発揮されているのである。そうした中から生まれた文章表現であることこそ、注目に価すると言えよう。