著者
藤井 由紀子 フジイ ユキコ Yukiko FUJII
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.36, pp.7-29, 2015

本稿は、平安・鎌倉期の往生説話における「火車」の存在意義を考察することによって、当時の人々の〈死と救済〉の概念を探ったものである。まず、『今昔物語集』の済源伝を、『日本往生極楽記』に載る異伝と比較することによって、「火車」が「罪」と結びつくものであることを指摘した。さらに、『今昔物語集』と『宝物集』に載る悪人往生の「火車」説話を比較し、その罪が「五逆」に相当するような大罪であることを明らかにした。『宝物集』や『発心集』に載る「火車」説話は、『往生要集』を源泉として、臨終行儀と深く結びつくことによって成立している。それに対して、『今昔物語集』の「火車」説話は、その事件性に主眼があり、第三者の視線にさらされる「火車」の姿を示すことによって、のちに妖怪化する「火車」の怪異性を、先見的に示すものであったと位置づけた。 This paper examines concepts of death and salvation in the Heian and Kamakura periods by considering the reasons why Kasha appeared in the Setsuwa literature on passing into the next life. First, I point out that Kasha was connected with sin by comparing the biography of Saigen in Konjyaku monogatari shu with a different version of it contained in Nihon ojyo gokuraku ki. Furthermore, the sin turned out to be a serious one, equivalent to Gogyaku (the five Buddhist deadly sins) through a comparison of Kasha stories on a sinners death in Konjyaku monogatari shu and Hobutsu shu. Kasha tales in Hobutsu shu and Hosshin shu, whose source was Ojyo yo shu, were formed under the strong influence of Rinju Gyogi (Ars Moriendi). In contrast, an episode of Kasha in Konjyaku monogatari shu focuses a dramatic aspect of the story. It adumbrated the strangeness of Kasha which would become Yokai, depicting its figure exposed to the eyes of the third party.
著者
藤井 由紀子 フジイ ユキコ Yukiko FUJII
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.36, pp.7-29, 2015-03-31

本稿は、平安・鎌倉期の往生説話における「火車」の存在意義を考察することによって、当時の人々の〈死と救済〉の概念を探ったものである。まず、『今昔物語集』の済源伝を、『日本往生極楽記』に載る異伝と比較することによって、「火車」が「罪」と結びつくものであることを指摘した。さらに、『今昔物語集』と『宝物集』に載る悪人往生の「火車」説話を比較し、その罪が「五逆」に相当するような大罪であることを明らかにした。『宝物集』や『発心集』に載る「火車」説話は、『往生要集』を源泉として、臨終行儀と深く結びつくことによって成立している。それに対して、『今昔物語集』の「火車」説話は、その事件性に主眼があり、第三者の視線にさらされる「火車」の姿を示すことによって、のちに妖怪化する「火車」の怪異性を、先見的に示すものであったと位置づけた。