著者
松本 隆 マツモト タカシ Takashi MATSUMOTO
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.35, pp.286-271, 2014

1874年に翻訳出版された化学入門書『ものわり の はしご』の語彙、特に巻頭の用語解説付録「ことば の さだめ」の見出し項目を分析した。本書は、漢字と漢語を廃し、化学的な現象や物質名を含め、全文を平仮名の和語で訳しており、その語彙分析から主な特徴として次の3点を見出した。(1)和語による造語は、それまでの漢字を用いた造語の流れを汲んでおり、和語でも体系的で簡明な命名が可能である。(2)類義関係にある和語動詞群を使い分けることにより、混同しやすい類似の化学現象を区別して表現できる。(3)漢語よりも和語の方が、現実世界の事象を巧みに言語に写像し命名した例も見られる。つまり本書は、近代の西洋思想を和語で表現し、論旨の通った文章を平仮名で表記できることを、化学の分野で世に示した先駆的実践ということができる。
著者
藤本 猛 フジモト タケシ Takeshi FUJIMOTO
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.38, pp.23-46, 2017-03-31

宦官とは、去勢された男性のことを指す。ユーラシア大陸に広範に見られるこの風習は、中国においては紀元前の古代から存在し、彼らは特に禁中にて皇帝の身辺に奉仕し、一種の奴隷でもあり、また官僚でもある存在であった。そして最高権力者たる皇帝との距離の近さから、しばしば政治に介入し、専横な振る舞いが見られ、その特異な身体的特徴もあって、非常に負のイメージの強い存在である。 そんな宦官に関する北宋時代の史料を見ていると、宦官の「子」や「妻」という表現をよく目にする。言うまでも無く宦官には生殖機能がなく、子ができるはずがない。このことにつき改めて諸史料を調査し、検討を加えたところ、北宋初期に命令が出され、30歳以上の宦官には養子一人を取ることが認められていることが判明した。これによって基本的に北宋時代の宦官には、養子によって家が継がれ、その養子の多くがまた宦官となって次代の皇帝に仕える、というシステムになっており、結果としていくつかの宦官の家柄が成立していたことが推測される。また彼らのなかには複数の養子を兄弟として育てたり、皇帝の声がかりなどで妻を娶り、宮中とは別の場所に邸宅を構えるものも存在し、宦官でありながら一般官僚と変わらぬ家族生活を営むこともできていたことがわかった。 北宋時代の後宮が、基本的には限られた宦官一族によって支えられていたことが分かったが、その実態については史料が限られているために全面的に解明することは不可能である。しかし零細な史料をつなぎ合わせると、歴代皇帝の後宮に仕えたいくつかの宦官一族の存在が見つかった。その一つが李神福にはじまる一族であった。六代十二人の存在が確認できるこの一族は、初代から第六代までの歴代皇帝に仕え、特に李神福は太宗・真宗皇帝に50年以上も仕え、穏和な性格で知られた。その曽孫である李舜挙は軍事面で神宗皇帝に仕えて戦死したが、その散り際の潔さ、忠誠心の厚さによって、司馬光・蘇軾ら当時の士大夫から賞賛された人物だった。 以上判明した北宋時代における宦官の実態は、これまで抱かれてきた宦官の負のイメージとはいささか異なるものであったといえるだろう。
著者
藤本 勝義 フジモト カツヨシ Katsuyoshi FUJIMOTO
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.36, pp.31-48, 2015

源氏物語では重要な人物で死ぬ者が多い。それは、長編物語のためだけでなく、死そのものの意味があり、死で終わるのではなく、そのプロセスと、死後に残された者の思いが重視されているからと言える。本稿では、死のもたらすものと、死者の救済について考察し、仏教的な救済はもとより、源氏物語独自の救済の論理を把握しようとするものである。先ず、物の怪に憑依された人物を取り上げる。夕顔は、その死が娘などには知られないため、菩提を弔われることが少なく、成仏することがかなり遅れた。葵の上は、嘆き悲しむ光源氏の心からの哀悼により成仏したと考えてよい。しかし、光源氏がそこまで葵の上を愛していたとも思われない。別の理由も考えられる。死者の往生のためには、生前の本人の仏道への帰依と、残された者の供養が要請された。勤行の経験がほとんどなかった主に若い死者には、残された者の心からの追善供養が必要である。六条御息所を光源氏が、心をこめて菩提を弔うことはなかったと言ってよい。それは、死霊となる六条御息所の物語とも深く結びついていた。源氏物語では、死者の冥福に関して、追善供養と精神的救済が要請されているかのようである。紫の上は厚い信仰心と光源氏の心底からの供養によって極楽往生した。次に、亡霊として夢枕に立つ人物の救済だが、桐壺院は、光源氏による大々的な追善供養によって救われ、極楽往生したと考えられる。藤壺救済の道筋は、身代わりになってでも救いたいという光源氏の強い思いなどで、はっきりとつけられた。八の宮は、中の君が「幸い人」路線を進むことで、心の平安を得て成仏したと考えられる。源氏物語以外の作品では、光源氏など個人が、心の底から菩提を弔うといった、あくまで物語の精緻な展開に密着した描写は限られており、盛大な葬儀を行うことが、当事者の権勢を示すことに直接関わったり、源氏物語には決して描かれなかった挿話を記すなど、その質の違いが際立つのである。
著者
藤井 由紀子 フジイ ユキコ Yukiko FUJII
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.36, pp.7-29, 2015

本稿は、平安・鎌倉期の往生説話における「火車」の存在意義を考察することによって、当時の人々の〈死と救済〉の概念を探ったものである。まず、『今昔物語集』の済源伝を、『日本往生極楽記』に載る異伝と比較することによって、「火車」が「罪」と結びつくものであることを指摘した。さらに、『今昔物語集』と『宝物集』に載る悪人往生の「火車」説話を比較し、その罪が「五逆」に相当するような大罪であることを明らかにした。『宝物集』や『発心集』に載る「火車」説話は、『往生要集』を源泉として、臨終行儀と深く結びつくことによって成立している。それに対して、『今昔物語集』の「火車」説話は、その事件性に主眼があり、第三者の視線にさらされる「火車」の姿を示すことによって、のちに妖怪化する「火車」の怪異性を、先見的に示すものであったと位置づけた。 This paper examines concepts of death and salvation in the Heian and Kamakura periods by considering the reasons why Kasha appeared in the Setsuwa literature on passing into the next life. First, I point out that Kasha was connected with sin by comparing the biography of Saigen in Konjyaku monogatari shu with a different version of it contained in Nihon ojyo gokuraku ki. Furthermore, the sin turned out to be a serious one, equivalent to Gogyaku (the five Buddhist deadly sins) through a comparison of Kasha stories on a sinners death in Konjyaku monogatari shu and Hobutsu shu. Kasha tales in Hobutsu shu and Hosshin shu, whose source was Ojyo yo shu, were formed under the strong influence of Rinju Gyogi (Ars Moriendi). In contrast, an episode of Kasha in Konjyaku monogatari shu focuses a dramatic aspect of the story. It adumbrated the strangeness of Kasha which would become Yokai, depicting its figure exposed to the eyes of the third party.
著者
高林 陽展 タカバヤシ アキノブ Akinobu TAKABAYASHI
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.36, pp.182-160, 2015

本稿は、ミシェル・フーコーの規律化と統治性に関する議論を念頭におきつつ、20世紀前半のイングランドにおける精神病院とその患者の問題を検討するものである。フーコーは、18 ~ 19世紀のヨーロッパにおける精神病院の勃興について、非理性の代表格たる狂気を規律化し、理性を持つ者の側に復帰させるための啓蒙主義的試みとして論じた。このフーコーの議論をめぐっては、実証的な歴史学の立場から再検討が加えられ、実際の精神病院の現場では精神病者とその家族の利害が考慮されていたことが明らかとなった。しかし、こうした実証的な研究は、20 世紀の精神病院とその患者たちを視野の外に置いていた。それは、20 世紀の精神病院には19 世紀とは異なる特質が認められるためであった。19 世紀末になって狂気の規律化が失敗に終わりつつあることが徐々に認識されると、精神病院という施設を通じた規律化を高コストなものとして退け、ソーシャル・ワークを中心とした施設外での取り組みが増えていった。このような歴史的展開は、フーコーが「生権力」「統治性」と呼んだ概念の下でより鮮明に理解することができる。フーコーは、近代社会の特徴を、集団レベルでの生命の特性を把握し、その調整を行う権力である生権力、人口集団を政治経済的に統制するための様々な制度や戦術の動員を意味する統治性という二つの概念の下で論じた。つまり、フーコーは、規律化とは異なる管理と統治の技法の存在を示唆している。本稿は、その新たな管理と統治の技法が実際の精神医療の現場においても確認できるものかを問うものである。具体的には、ロンドン近郊に所在したクライバリ精神病院の運営委員会記録を分析し、20世紀前半の精神病者たちは果たして、生権力と統治性という、いわば精神医学の権力に服する存在だったのか。彼ら自身の主体性は認められないのかを検討した。分析の結果、精神病院と精神科医たちは多くの場合、患者とその家族の利害を汲んでいたことが明らかとなった。ただし、フーコーが論じた別の概念、統治手段としての家族、あるいは司牧的権力論を参照すると、患者の主体性を認めることは一概には望ましくないことも確認された。結論としては、20 世紀前半のイングランドにおける精神医療は、ソーシャル・ワークという新たなサービス形態を通じて、患者とその家族の生活へとアプローチし、そのチャンネルを通じた国民生命と健康の管理を目指したことが論じられた。 The aim of this paper is to examine the power relations regarding English mental hospitals in the first half of the twentieth century, paying particular attention to Michel Foucault's conceptions of institutionalization and governmentality. Foucault argued that the enlightenment between eighteenth and nineteenth centuries brought about the sudden rise of mental hospitals in Europe, where insanity, which was regarded as human irrationality, could be cured in the specialized institution, the lunatic asylum, by the exercise of reason. Such an enlightenment approach to lunacy was called "moral treatment". By the late nineteenth century, however, moral treatment had apparently shown its failure, since incurable lunatic patients were accumulated in asylums. Hence, English psychiatrists and welfare administrators thought lunatic asylums represented a high cost approach to the problem of lunacy, and therefore they began employing a new measure for prevention and after care for mental diseases: social work. With such a medico-administrative network for the control of mental diseases, English psychiatr y expanded its reach to the socially problematic families, which presumably corresponded to what Foucault called "governmentality"; a new technology of social control specialized for the social problems in the modern age. It was with this new technology that English psychiatry changed its way of control and mode of power from a vertical one in the institutional settings to a more ubiquitous one throughout the population. What this paper particularly argues for is to examine this historical model based on Foucault in the actual institutionoal and social work settings in the first part of the twentieth century. In doing so, it focuses on the Claybury Mental hospital, located in East London, whose surviving historical documents, particularly the minutes of the management committee, illuminate the practices of the mental hospital and social work. In so doing, it questions whether patients complied with the controlling power of psychiatry, and whether they negotiated with psychiatric authorities any agreements as to the conditions of treatment, social work and other welfare provisions. Furthermore, it also approaches another question; whether we can find any form of subjectivity regarding those who are suffering from mental diseases. To this end, this paper finds that psychiatric authorities, including mental hospitals, psychiatrists and social workers, considered well the interests of the patients and their families in providing services. However, it also argues that English psychiatr y did not acutually concede patients and their families free use of its services, but instead found an instrumental value in administering the problem of mental diseases through the channel of the family. English psychiatry allowed for the subjectivity of patients and their families only when its detective network worked properly and permeated their objects. Any complete deviation from the network was not allowed. In conclusion, therefore, this paper argues that English psychiatry attempted to extend its controlling mechanism, social work, to the depth of the socially problematic population; those who suffered mental diseases.
著者
今野 真二 Shinji KONNO 清泉女子大学 SEISEN UNIVERSITY
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.40, pp.1-20, 2019-03-31

いわゆる古本節用集は室町時代中頃に成り、『日葡辞書』は一六〇三年に成立している。ちかい時期に成ったこれら二つの辞書体資料は、室町時代の日本語の観察に使われることが少なくない。特に『日葡辞書』は見出しとして採用した日本語をアルファベットで書いているために、漢字や仮名で書いた場合にはわからない発音がわかる文献として重視されてきた。 標準語形の周囲を(場合によっては)複数の非標準語形がとりまいているというモデルを考えた場合に、非標準語形をどの程度辞書体資料が見出しとするかは、当該辞書体資料の編纂者、編纂目的等によって異なることが推測できる。そうであれば、『日葡辞書』がつねに「万能」ということにならないことはいうまでもない。『節用集』は(必須ではないにしても)見出しとして採用している漢字列に振仮名を施すことが多い。その振仮名は、書写原本のそれを踏襲することももちろんあろうが、書写者が自らの発音に基づいて施すこともあったと推測できる。『節用集』の振仮名は多様で、当該時期の非標準語形が振仮名として施されていることが少なくないことを具体的に指摘し、『日葡辞書』と『節用集』とを併せて観察することが室町時代の日本語研究には必要なことを指摘した。"Setsuyo-shu" is a Japanese dictionary that was completed in mid-Muromachi period, and "Nippo-jisho" is a Japanese dictionary completed in 1603. The two dictionaries have been used frequently to analyze the Japanese language of the Muromachi period. The word entries of "Setsuyo-shu" were written in kanji (Chinese characters) that are often attached with Japanese syllabaries. The word entries of "Nippo-jisho" were written in alphabetical order, interpreted in medieval Portuguese. Since the entries of "Nippo-jisho" were written in alphabet letters, it was possible to know the pronunciation of the Japanese words, unlike words written in Chinese characters or Japanese syllabaries. For example, if the Chinese character「洗濯」is written, the pronunciation of the word is unknown. However, if the word is written in the Jesuit form of alphabet " xendacu," then the pronunciation "sentaku" would be clear. Because of this, in the analysis of the Japanese language during the Muromachi period, there is a possibility that the "Nippo-jisho" was the best well-grounded choice. There are standard kinds of word forms and nonstandard kinds of word forms. In this paper, a model in which some nonstandard kinds of word forms surround the standard kinds of word forms was approached. The fact that not all of these nonstandard kinds of word forms were used as entry words in the "Nippo-jisho" is specifically indicated by comparing the entry words in the "Setsuyo-shu." Several nonstandard kinds of words often appear in the "Setsuyo-shu." The observation of the Japanese language during the Muromachi period will be made more precise with the use of "Nippo-jisho" and by placing the complete "Setsuyo-shu" as a document that reflects the "sway" of a language.
著者
山本 勉 小久保 芙美 神野 祐太 伊波 知秋 ヤマモト ツトム コクボ フミ ジンノ ユウタ イナミ チアキ Tsutomu YAMAMOTO Fumi KOKUBO Yuta JINNO Chiaki INAMI
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.35, pp.95-167, 2014-03

東京都荒川区の社会福祉法人上宮会所蔵聖徳太子像は、像内銘により、文永七年(一二七〇)に仏師尭慶が製作したことの知られる鎌倉時代後期の規準作品である。本稿では、二〇一三年五月に大学院思想文化専攻開講科目「美術史学演習Ⅲ」における演習の一環で実施した調査の概要を、「伝来」「像の概要」「銘記および納入品」の三章に分けて報告し、さらに日本彫刻史上の意義や周辺の問題についても、「聖徳太子造像における位置」「形式と表現」「仏師尭慶について」の三章に分けて論述する。この像は、聖徳太子像の典型的形式のひとつである孝養太子像の初期作例として貴重である。銘記によれば不退寺(現在も奈良市に所在する不退寺にあたる可能性がつよい)の像として造られたもので、さらに十六歳の肖像であると明記し、その形式の原型となった像の存在が暗示されることも注目される。また、形式や表現の点で奈良・元興寺の善春作聖徳太子像と共通する点が多く、作者尭慶はその他の事績をふくめても、鎌倉中・後期の奈良で活躍した善派仏師と関係が深いこと、などが明らかになった。末尾には、近代以降のこの像の伝来に関する文献を関連史料として付載した。
著者
大野 聖良 オオノ セラ Sera ONO
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.38, pp.73-92, 2017-03-31

2000年国連で「国際組織犯罪防止条約」および付属議定書のひとつである「人身取引議定書」が採択され、国際社会および各国政府は人身取引の廃絶に向けて取り組んでいる。日本では2004年から人身取引対策が講じられ、主に外国籍女性の強制売春に焦点が当てられてきた。しかし、近年その被害は多様化し、人身取引をめぐる議論は大きく変容している。 本稿では、現代日本社会における人身取引問題の様相を捉えるため、人身取引の用語と概念の変遷を検討し、日本社会における「人身取引」の問題化の過程を明らかにする。 まず、日本の議論に少なからず影響を与えてきた国際社会におけるtrafficking in personsの議論を検討し、20世紀初頭の"white slave"(白人奴隷)問題からはじまり、1970年代から1990年代の国連を中心とした女性の人権をめぐる世界的な運動で登場するtraffic in women、2000年代に国際組織犯罪としてtrafficking in personsへと変遷する過程を示した。 次に行政・マスメディア・市民運動(NGO)を軸に日本社会における人身取引問題の議論を検討した。第二次世界大戦後、戦災孤児や貧しい農村の子どもを対象にした児童労働問題として「いわゆる人身売買」が端緒となり、赤線地帯の問題、1980年代後半から東・東南アジア女性の強制売春という女性の人権問題としての「人身売買」、2000年代には国際社会で優先課題となった国際組織犯罪という視点が加わり、日本社会で「トラフィッキング」「人身取引」が可視化される過程を示した。さらに、ここ数年、日本人少女を対象にした児童売春や「技能実習生」問題が新たな人身取引として捉えられはじめた背景についても言及した。 これらの検討を通じて、日本において人身取引が国内外の様々な文脈を通じて問題化されてきた過程と、現在も人身取引問題をめぐる境界線が常に揺れ動いている点を論じた。 In December 2000, the United Nations adopted "the UN Convention against Transnational Organized Crime" and its three protocols: Trafficking Protocol, Smuggling Protocol and Illicit Manufacturing Protocol. Until the Trafficking Protocol appeared, the term "Trafficking" had not been defined in international law, despite its incorporation in a number of international legal agreements. International society and each government have agreed to prohibit and eliminate trafficking in persons, and the Japanese government also started the National Action Plan against Trafficking in Persons in 2004. In Japan, trafficking in persons has been known as an issue concerning foreign women, especially from East Asia and Southeast Asia, who have been forced into prostitution. However, the recent discussion in Japan has been changing to a different consideration of sexual exploitation. The aim of this paper is to examine the transition of the term and concept of "trafficking in persons" in Japan as the process of its problematization. First, I consider the international context of trafficking in persons from the starting point of some international legal agreements against it. This issue started from "white slavery" in Europe at the beginning of the 20th century, and had changed to "traffic in women" as an issue of women's human rights in the 1970s―1990s. Since 2000, "trafficking in persons" has been regarded as "transnational organized crime", and has become a priority matter in international society these days. Next, I consider the Japanese context of trafficking in persons from the government, media and civil movements (NGOs). After WWⅡ, "so-called jinshin-baibai (human trafficking)" as child labor problems among war orphans and children in the poor rural villages paved the way for discussion of trafficking in persons. After that, it came to mean "red-light district" problems involving young women until the 1956 Anti-Prostitution Law, and it moved into consideration as "Jinshin-baibai", involving as forced prostitution among women from East and Southeast Asian countries along with the civil movements in the 1980s ―1990s. In concert with the international context, the Japanese government has regarded "trafficking" or "jinshin-torihiki (trafficking in persons)" as transnational organized crime since the 2000s. In addition, I refer to another tendency, showing how child prostitution among Japanese young girls and "Technical Intern Trainee" problems have come to be regarded as new forms of trafficking in persons, according to the government and NGOs. Through these examinations, this paper argues that trafficking in persons in Japan have been problematized by several different contexts in national and international discussions, and its boundary line has been fluid according to "what we should recognize as trafficking in persons".
著者
藤井 由紀子 フジイ ユキコ Yukiko FUJII
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.36, pp.7-29, 2015-03-31

本稿は、平安・鎌倉期の往生説話における「火車」の存在意義を考察することによって、当時の人々の〈死と救済〉の概念を探ったものである。まず、『今昔物語集』の済源伝を、『日本往生極楽記』に載る異伝と比較することによって、「火車」が「罪」と結びつくものであることを指摘した。さらに、『今昔物語集』と『宝物集』に載る悪人往生の「火車」説話を比較し、その罪が「五逆」に相当するような大罪であることを明らかにした。『宝物集』や『発心集』に載る「火車」説話は、『往生要集』を源泉として、臨終行儀と深く結びつくことによって成立している。それに対して、『今昔物語集』の「火車」説話は、その事件性に主眼があり、第三者の視線にさらされる「火車」の姿を示すことによって、のちに妖怪化する「火車」の怪異性を、先見的に示すものであったと位置づけた。
著者
松本 隆 マツモト タカシ Takashi MATSUMOTO
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.35, pp.271-286, 2014-03

1874年に翻訳出版された化学入門書『ものわり の はしご』の語彙、特に巻頭の用語解説付録「ことば の さだめ」の見出し項目を分析した。本書は、漢字と漢語を廃し、化学的な現象や物質名を含め、全文を平仮名の和語で訳しており、その語彙分析から主な特徴として次の3点を見出した。(1)和語による造語は、それまでの漢字を用いた造語の流れを汲んでおり、和語でも体系的で簡明な命名が可能である。(2)類義関係にある和語動詞群を使い分けることにより、混同しやすい類似の化学現象を区別して表現できる。(3)漢語よりも和語の方が、現実世界の事象を巧みに言語に写像し命名した例も見られる。つまり本書は、近代の西洋思想を和語で表現し、論旨の通った文章を平仮名で表記できることを、化学の分野で世に示した先駆的実践ということができる。
著者
井上 まどか イノウエ マドカ Madoka INOUE
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.35, pp.195-220, 2014-03

本稿では、ソルジェニーツィンのロシア/ロシア人論を検討することにより、その表象世界においては、その内部に悪や悪意が存在しないことを明らかにする。今日のソルジェニーツィンに対する評価は、完全に二分されている。とりわけ彼のロシア/ロシア人論について、リベラルな人々は民族主義的あるいは反ユダヤ主義的であると批判して、もはや考察の対象としない一方で、政治家や本質主義的なロシア論を展開する人々においては根強く支持されている。両者の間に大きな懸隔が存在する。本稿では、ソルジェニーツィンのロシア表象における悪の不在を明らかにすることによって、その両者の対話の糸口とすることを目的とする。 検討の対象となるのは、ソルジェニーツィンの主に60―70年代と90年代の作品である。60年代の作品の中から主に短編文芸作品、90年代の作品の中からロシア/ロシア人論が展開される2つの論文をとりあげる。 第1節は、「善き民衆(ナロード)~智慧としての正教」と題し、60年代の作品では農民や労働者に見出される人間的美徳が、90年代においてはロシア人一般に投影され、正教によって培われる美徳とみなされるようになることを明らかにする。第2節は、「善き大統領とともに~ロシア型民主主義」と題し、90年代のロシア論をとりあげ、「小空間の民主主義」とソルジェニーツィンが呼ぶところのロシア型民主主義について考察する。第3節は、「ロシア人論と民族概念」と題し、1990年代の作品におけるロシア人像をソ連時代の民族概念・民族行政との関連において考察する。最後に、ソルジェニーツィンのロシア表象における悪の不在とその意味について検討を行なう。This paper discusses the absence of evil in the 60s and 90s works of A. Solzhenitsyn. When he talks about what Russians should be, or how Russia can reborn after the collapse of USSR, he imagines a world of harmony with people of good faith. In his 60s literary works, Solzhenitsyn portrays Russian peasants as people endowed with the virtues of modesty, unselfishness and patience. In his 90s works, he reflects on the goodness of Russian peasants among all the Russian people, who follow the faith of the Orthodox Church. Moreover, when he argues about the Russian type of democracy, he claims that a cooperative relationship could emerge between an ethical and moral president and a Russian people who can both listen to each other. In his consideration, ethnic Russians who have been forced to scatter throughout the Russian Federation, have a mission to become a warp thread in a tapestry woven by various ethnic groups in Russia. Addition to discussing these analyses, this paper clarifies the fact that evils are absent from the world which Solzhenitsyn depicts; that is, his world is full of people of good will. In such a situation, what seems to be utopia takes on a new complexion as dystopia. This is because the violence of compulsive agreement might be forced on people. Solzhenitsyn has sometimes been called a Russian chauvinist or nationalist; however, it is insufficient and meaningless to label him as such. If we are to face the gulf or lack of dialogue between liberal intellectuals and people who sympathize with the Russian image of Solzhenitsyn, further considerations on the absence of evil in his world might provide a clue to initiating dialogues.
著者
藤澤 秀幸 フジサワ ヒデユキ Hideyuki FUJISAWA
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.36, pp.67-79, 2015

幸田露伴における死と救済は仏教的である。彼の場合、現世で死んだ人を救済する方法は転生である。この発想は伝統的で、新しくない。人間の世界から人間の世界への転生は水平方向への転生である。 他方、泉鏡花における死と救済には二つのパターンがある。一つは、死にそうな状況からの救済である。これは露伴には見られない特徴である。これは、年上の美しい女性によって救済されたいという鏡花の夢から生まれた鏡花文学の基本構造である。二つ目は、人間の世界での死が異界への転生によって救済されるというパターンである。この発想は新しい。これは垂直方向への転生である。 露伴と鏡花は対照的であるが、鏡花は露伴を超えていた。 The conception of death and relief in Rohan Kouda is like that of Buddhism. In his case, the method to give relief to a dead person in this world is through transmigration. This idea is traditional and is not new. Transmigration from the human world to the human world is transmigration in a horizontal direction. On the other hand, the conception of death and relief in Kyoka Izumi includes two patterns. One is relief from the situation of apparent death. This is a characteristic not to be seen to Rohan. This is a creation of the Kyoka literature that came out of a dream of Kyoka who wanted to receive relief from an older beautiful woman. The second is a pattern in which death in the human world is relieved by transmigration to a different world. This idea is new. This is transmigration in a vertical direction. Kyoka was in contrast to Rohan, and Kyoka surpassed Rohan.
著者
今野 真二 コンノ シンジ Shinji KONNO
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.36, pp.103-122, 2015

本稿では、これまで行なわれてきている近代(日本)語研究に関して、幾つかの観点を設定して振り返り、今後どのような研究上の課題が残されているかということなどについて述べた。具体的な話題として、「かなづかい」と「連合関係」とを採りあげた。前者に関しては、「かなづかい」という枠組みの中、すなわち仮名によって語を書くという枠組みの中では、一つの語の書き方を一つに定めない「多表記性表記システム」が看取されるか否かが古代語と近代語とを分けるのではないかという仮説を示した。後者については、室町期の資料にみられる連合関係と同じような連合関係が明治期の資料にみられることを一つのモデルとして示し、「連合関係」がどのような範囲に成り立っているのかという観察が、「共時態」の検証の一方法になるのではないかという仮説を示した。 Recalling the researches that have been done on modern Japanese language, attempts were made in this paper to raise two questions. The questions were in regard to the use of Kana and the associative relationship of words. Regarding the use of Kana, a hypothesis was made that the modern language period had a "multidisplay writing system," which did not limit the writing variation of a word to one, but recognized various ways of writing; whereas the ancient language period did not have such a system. Regarding "associative relationship," a hypothesis was made that the continuity/discontinuity of words can be considered by inspecting whether there is a common relation between the word entry and its explanation in a dictionary. Although both questions raised are hypothetical at the moment, it is hoped that these hypotheses will be examined from various aspects in the future.
著者
梅澤 秀夫 ウメザワ ヒデオ Hideo UMEZAWA
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.35, pp.69-93, 2014

本稿は、近藤重蔵の思想と行動を、歴史の中にいかに位置づけるかを考えることを課題としている。今回は、まず学問吟味で優秀な成績を収めた近藤重蔵が、寛政七(一七九五)年から九年にかけて、長崎奉行に任命された中川忠英の手附出役(奉行補佐官)として、長崎で勤務した時期の活動について考察した。次に、中川が勘定奉行に転じ、重蔵も江戸に戻って勘定所の支配勘定となり、海防および蝦夷地問題についての意見書を幕府に提出した時期をとりあげ、重蔵の思考と活動について考察した。長崎での活動については、『清俗紀聞』の編纂を中心に、当時幕府が進めつつあった書物編纂事業の一環として考えられること、及び重蔵の考証学者としての能力が最初に活用された事例であることを指摘した。次に、重蔵と蝦夷地との関わりについて考察する前提として、中世以来、蝦夷地がたどった歴史的経緯と近世国家体制に組み込まれてゆくプロセスをおおまかに検討した。それを踏まえ、十八世紀以降、北方地域にロシア勢力が出現し、その脅威に対処するために、幕府内に蝦夷地の直轄・開発を唱える改革派グループが形成され、勢力を拡大していくが、その政策が江戸初期以来の幕府の蝦夷地政策を大きく変更するものであることを指摘した。次に、寛政期における松平定信と改革派との関係、幕府内における強力な反対派勢力の存在を藤田覚氏の研究に依拠しながら、確認した。そして、定信退陣後にプロビデンス号来航を契機として直轄・開発派が、蝦夷地直轄に向けて動き出している状況の中で、重蔵等が江戸に帰着し、重蔵の意見書が提出されており、重蔵はこの幕府内の政治的対立の渦中に自らの意志で身を投じていったことを、重蔵が提出した意見書を検討しながら指摘した。なお、重蔵が寛政十年に幕府の大規模な蝦夷地調査団の一員として派遣され、蝦夷地で見聞・経験した諸問題については、次回にとりあげ、考察する予定である。 This is the second in a series of articles about the position and the role of Kondô Jûzô in Tokugawa intellectual history. This particular paper focuses on his thoughts and activity in the late eighteenth century, from 1795 to 1798 in particular, when he was in his late twenties. In 1795 Nakagawa Tadahide, the newly appointed magistrate of Nagasaki, recruited Kondô Jûzô as one of his assistants since he had been impressed by the remarkable scholarly ability of the young man. When Nakagawa was given a promotion and appointed as a magistrate in charge of the bakufu finance in two years, he took Kondô back to Edo with him and arranged for the latter's appointment as a junior official working for his office. This paper takes up the edition of Shinzoku Kibun, a book on customs and folk culture of Qing (Shin) China, carried out under the supervision of Nakagawa. This paper points out that Kondô played a major role in editing the book, making full use of his knowledge and ability in Chinese studies. It also points out that the edition of the book could be viewed as a part of a project of editing various books that the bakufu was carrying out at the time. Next, the paper sketches the history of Ezochi, the northern boundary area where Ainu people were living, and the developments and changes in the bakufu's policies about the management of the area from the early Tokugawa period on. Then it focuses on the argument exchanged between groups of bakufu officials in the late eighteenth century about how to deal with the people and the land of the area. One of the groups of officials, who were on alert against Russian policies of extending its territory into north-east Asia, made a plan to put Ezochi under the bakufu's direct control and develop agriculture and other industries there. This paper points out that such a plan was in conflict with the bakufu's traditional policy of dealing with the land of Ainu separately from the other parts of Japanese territory, and that the group of officials were inevitably oriented toward the reform of the traditional policy. The news about the incursion of the Providence, a British warship, into the Funkawan Bay of Ezochi, in 1796 encouraged this group of officials to promote a movement aiming at the realization of their plan. At the time Matsudaira Sadanobu, who had kept the group not to be too radical, had already resigned from the office of the senior councilor. According to the research of Fujita Satoshi on the bakufu's politics of this period, those bakufu officials who opposed to such a reforming policy banded together and tried to disturb the movement of the reformers. Against such controversy between groups of the bakufu officials as the backdrop, this paper analyzes a written proposal that Kondô submitted to the bakufu councilors at the time and points out that he intentionally participated in the argument on the side of the reformers.
著者
斉藤 悦子 川谷 旺未 サイトウ エツコ カワタニ アキミ Etsuko SAITO Akimi KAWATANI
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.38, pp.54-72, 2017-03-31

1860年、南北戦争開戦前夜のアメリカに幕末の日本から遣米使節団が訪れ、そのワシントン到着の様子はニューヨークの主要メディアでも大々的にとりあげられた。その中でもふんだんなイラスト付きで報じたハーパーズ・ウィークリー紙には、一般的な記事のほかにも、風刺漫画や漫談風の記事なども掲載された。本稿は1830年代からアメリカジャーナリズムの中でひとつのジャンルとして人気のあった、架空の「田舎者」的人物がなぜか歴史的瞬間に立ち会って親戚に見聞録の手紙を送る、というスタイルのコラムを訳出、注釈したものである。判読の難しいvernacularで書かれた時事放談を、まず判読して標準英語に直し、注をつけて日本語に訳出した。遣米使節団がニューヨークの庶民に向かってどのように伝えられたか、という資料として紹介したい。 On the Japanese Embassy's arrival in Washington in 1860, various media in New York responded with cover stories and feature articles. In the May 26th issue of Harper's Weekly, a vernacular parody, based on the "Major Jack Downing" letters created by Seba Smith in the 1830s, appeared as a nearly identical letter home written by Major Downing's nephew Benjamin. It is a Forrest Gump-ish account of a young lad suddenly chosen as the master of ceremony to receive the Foreign Embassy. This vernacular letter displays much of how the general public felt on their first contact with the Japanese. Since the vernacular style is difficult to encode and the text is full of political connotations specific to the eve of Civil War, it may be worthwhile to annotate and translate it into Japanese as a source for research on the Japanese Embassy of the Manei era in the late Edo period.
著者
長野 太郎 ナガノ タロウ Taro NAGANO
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.35, pp.242-222, 2014

アメリカ合衆国における社交ダンス、とくにペアダンスの歴史には、つねにピューリタン的禁欲主義の問題が関わっていた。こうした禁欲主義は、マックス・ヴェーバーの言う資本主義の精神の根本にあり、人々の行動を内と外から統制してきた。つまり、労働の対極にあるものとしてダンスを遠ざける一方で、道徳的な観点からの糾弾もなされてきた。また同様に、人種、階層、ジェンダーなどの社会的変数が歴史状況に応じて交渉される、接触領域の存在も重要である。本稿では、もっとも米国的な社交ダンスが登場した1920 年代に注目する。 El ascetismo puritano ha estado presente en la historia del baile social en Estados Unidos, sobre todo en relación con el baile de pareja. Dicho ascetismo, elemento constitutivo fundamental del espíritu del capitalismo según Max Weber, ejerce control sobre los comportamientos de las personas desde dentro y desde fuera: por un lado, debido a la reprobación del baile como enemigo del trabajo y a la polémica moralizante por otro. Asimismo, otro factor a considerar es el de las zonas de contacto, que cambian según los momentos históricos, donde las diferentes variables sociales como la raza, la clase social o el género entran en juego. Se presta atención especial a los años 20 cuando los bailes modernos típicamente estadounidenses aparecieron.
著者
金田 房子 カナタ フサコ Fusako KANATA
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.38, pp.1-21, 2017-03-31

矢口一彡(一七八七~一八七三)は、群馬県高崎市の八幡八幡宮の神職を務める一方で、俳諧宗匠・寺子屋宗匠として、地域の啓蒙活動に尽力した。一彡は、とくに俳諧に熱心で、はじめ地元高崎を中心とする平花庵の人々と交流し、のち天保の三大家の一人である鳳朗に熱心に学ぶ。晩年は自らも俳諧宗匠として近隣の人々の指導にあたった。 一彡の文化活動は、「矢口丹波記念文庫」として子孫の宅にまとまって保存されている。筆者はこれらの資料から、かつて一彡の生涯を「矢口一彡年譜稿―上毛八幡矢口家蔵書から―」(『国文学研究資料館紀要』39 平成25年3月)として時系列にまとめた。こうした文化的な活動の中で、具体的にどのような人々と交流したのかについては、同文庫に保存されている短冊類や書簡、月並俳諧の募句広告といった一枚物の資料を参考とすることができる。これらに記される人物を調べることで、一彡の活動の具体像を明らかにしてゆく。 所蔵される短冊はおよそ百枚、各々の作者を調べ、伝記のわかる二十名について、個々に紹介する。これによって見えてくるのは、主として白雄―碩布―逸淵―西馬とつながる春秋庵系の俳諧グループにつながりのある人々との交流である。また、月並俳諧の募句広告からも、一彡が晩年に逸淵門の点取俳諧に参加していたことを知ることができる。 一方で、書簡には、和算家との関わりを示すものがある。これは、紹介状として書かれたもので、一彡が務めた神社に算額も残る上州の和算家岩井重遠から、江戸の和算家馬場正統に宛てたものである。馬場正統は錦江と号し、俳諧宗匠としても著名であった。 江戸時代末期の北関東における村の文化活動を明らかにする手がかりとして地方俳諧宗匠の活動に注目し研究を進めるなかで、本稿では残された資料から浮かび上がる交友関係に焦点をあてた。
著者
姫野 敦子 ヒメノ アツコ Atsuko HIMENO
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.36, pp.49-65, 2015

中世の日本文学において、死、そして救済はどのように捉えられていたのかを世阿弥(生没年一三六三?〜一四四三?)作の能「鵺」を通じて考えた。中世文学における「救済」は、仏教的意味での「往生」として表される。つまり「六道輪廻」という苦しみから抜け出る方策が、「往生」である。世阿弥の時代前後の「修羅能」では、終末部に弔いを頼み、成仏を願う様が描かれる一方で、「鵺」では成仏が約束されてはいない。これは、「鵺」という畜生道の存在が影響していると考察し、作者の世阿弥は、成仏の困難さを描くことで、より観客へ訴える能をつくっていったと結論づけた。 In Japanese literature of the Middle Ages, how was death and its relief represented? I thought through a Noh-play "Nue" by Zeami (1363? ~1443?). In medieval literature is expressed as "Ojo" in the meaning of Buddhism. "Ojo" is a way of getting away from the pains known as the "transmigration in the six worlds." Entering Nirvana is not promised in "Nue", but I ask for a postlude to mourning with "Shura- Noh" in the times of Zeami, and I describe a state of hope of entering Nirvana. I conseder the influence of the "Hell of Beasts" on "Nue" and conseder that this gave Zeami a stranger means of appealing to audiences by showing the difficulties of entering Nirvana.

2 0 0 0 IR 明治の写本

著者
今野 真二 コンノ シンジ Shinji KONNO
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.35, pp.41-67, 2014

江戸期に出版された版本が明治期に書写されたものを「明治の写本」と呼ぶことにする。そうした明治の写本は文学研究においては、採りあげられることはほとんどない。しかし、実際はそうしたものがある程度のひろがりをもって存在していることが推測される。本稿では、稿者が所持する明治十九年に写された『夢想兵衛胡蝶物語』(文化七年刊)を分析対象とした。版本と写本との対照によって、さまざまな言語事象についての知見を得ることができた。写本の振仮名においては、版本の語形の短呼形を振仮名として施している例が少なからずあり、当該時期に長音形/短呼形に「揺れ」が生じていた可能性がある。 A textbook that was published in the Edo Period was reproduced in the Meiji Period. This type of textbook is not generally considered as valuable in the field of literature research. However, in some cases, it can be accepted as a valid resource material in the field of linguistics. The Japanese language has changed over the years from the Edo Period to the Meiji Period. Such a process of change can be seen by comparing the textbook published in the Edo Period with the textbooks reproduced in the Meiji Period. From the contrast examined in this paper, with regards to whether the prolonged sound was recognized or not in the Meiji Period, it was pointed out that the word form may have been deviated. Moreover, it was also found that there may have a deviation in the special syllables such as the geminated consonant and the syllabic nasal. Furthermore, in order to indicate the inflectional form of the subjective case and the objective case, differences in whether the particle has been used or not can be found in both textbooks, however, it was concluded that such a condition constantly exists in the Japanese language.