著者
中島 欽一
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.37, no.1, pp.3-8, 2012 (Released:2023-05-31)
参考文献数
6

Ⅰ.はじめに 神経幹細胞は自己複製能を持つと同時に、中枢神経系を構成する主要な3細胞種であるニューロンおよびその機能を支持するアストロサイトとオリゴデンドロサイトへの多分化能を持った細胞である。近年ヒト成体脳においても神経幹細胞の存在が示され、その分化制御機構の解明は再生医学応用への観点からも注目されている。神経幹細胞の分化制御には、サイトカインや増殖因子といった細胞外因子の働きと、エピジェネティクス機構を含む細胞内在性プログラムの協調作用が重要であることが明らかになりつつある1)。バルプロ酸は抗てんかん薬として長らく使用されてきた薬剤であるが、近年ヒストン脱アセチル化酵素阻害剤としての作用が報告された。そこで本稿では、エピジェネティクス機構の中でもバルプロ酸によるヒストンアセチル化制御を介した神経幹細胞分化制御機構について述べるとともに、それを利用した抗てんかん薬としての作用機序の一部、およびわれわれが新規に開発した脊髄損傷治療法について紹介したい。 Ⅱ.ヒストンアセチル化 エピジェネティクスとは「遺伝子配列変換を伴わずに、遺伝子発現を調節する仕組み」と簡単には定義される。この仕組みを考慮することで、全く同じ遺伝子セットを持つにもかかわらず、異なる細胞や組織がそれぞれに特異的な遺伝子を発現できるという現象をうまく説明できる。エピジェネティクス機構はDNA自身のメチル化や、DNAが巻き付いてクロマチン構造をとるために必要なヒストンタンパク質の修飾(アセチル化、ユビキチン化、リン酸化、SUMO化、メチル化など)によって調節される。一般的にヒストンのアセチル化は遺伝子発現に対して正に、脱アセチル化は負に作用することが知られている2)。これはヒストン尾部がアセチル化を受けるとDNAとの親和性が減少した結果、クロマチン構造が脱凝縮し、転写因子等がアクセスしやすい状態になるためであると考えられている。 Ⅲ.バルプロ酸 現在バルプロ酸は臨床現場において抗てんかん薬、あるいは気分安定薬として広く用いられている。バルプロ酸は1882年、Burtonらによって初めて無色の液体として合成されたが、長い間治療薬としての効果を発見されることはなく、有機化合物を溶解するときに代謝的に不活性な溶媒としてごくまれに使われる程度であった。図1にその構造を示す3)。その後バルプロ酸の抗てんかん薬としての薬理作用が発見されたのは、実に80年後のことであった。1962年、Eymardらはkhellineという薬剤の誘導体が抗てんかん薬としての薬理作用を持つか否かを調べていた。その薬剤は水や一般的な有機溶媒に溶けにくい性質を持っていたため、当時ビスマス塩等の溶媒として用いられていたバルプロ酸に溶かしたのである。こうして作られた薬液は著明な抗てんかん作用を示したが、実はその効果は溶媒として用いていたバルプロ酸によるものだということが後になって明らかになった。1963年、Meunierらはバルプロ酸に抗けいれん作用があることを発見し、1964年にはCarrazらによって抗てんかん作用が再度確認された。日本においては1975年に抗てんかん薬として承認され現在まで用いられている。1980年代にはドイツ、以後アメリカで抗躁作用が報告された。1995年にアメリカ食品医薬品局(FDA)で抗躁薬として認可され、現在ではリチウムに次いで双極性障害の治療薬として広く使われている。日本では2002年秋に双極性障害治療薬として承認された。 バルプロ酸は他の気分安定薬に比較すると副作用は少ないものの、長期投与をうけた女性の8割で多囊胞性卵巣症候群もしくは高アンドロゲン血症を誘発したという報告もあることから、妊娠時には禁忌とされており、特に女性に維持療法として投与する際には注意が必要である。 Ⅳ.バルプロ酸のニューロン分化促進作用 近年、このバルプロ酸に新たな薬理作用があることが報告された。それはヒストン脱アセチル化酵素(HDAC)を阻害する働きである。前述のように、HDACが阻害されヒストンのアセチル化が亢進すると、クロマチン構造が弛緩し、転写因子などのDNA結合因子がアクセスしやすくなるとともに遺伝子の発現が亢進することが知られている。そこでわれわれはこのヒストンアセチル化状態が神経幹細胞分化に及ぼす影響を調べるために、神経幹細胞をバルプロ酸存在下に培養した。その結果、神経幹細胞をバルプロ酸で処理すると細胞増殖が抑制されると同時にニューロンへの分化が選択的に誘導されることを見いだした(図2)4)。これはゲノム全体のヒストンアセチル化がヒストン脱アセチル化酵素阻害によって亢進された場合、ニューロン以外にもアストロサイトやオリゴデンドロサイト特異的遺伝子の発現が促進された結果、混合された分化が見られるであろうという当初の予測に大いに反した結果であった。またこの増殖抑制とニューロン分化促進作用は他のHDAC阻害剤(トリコスタチンAおよび酪酸ナトリウム)を用いた場合にも同様に観察され、かつバルプロ酸の類似体でHDAC阻害作用を持たないバルプロミドでは見られなかったことから、これらの作用はバルプロ酸のHDAC阻害作用によって発揮されたものと考えられる。さらに興味深いことにバルプロ酸には、ニューロン分化促進作用に加え、神経幹細胞のアストロサイトやオリゴデンドロサイトへの分化を誘導する培養系においてはそれらグリア細胞への分化抑制作用も見られた。 前述バルプロ酸の機能発揮のメカニズムを解明するために、バルプロ酸によって発現が誘導される遺伝子を検索した結果、ニューロン分化誘導作用が知られているbasic-helix-loop-helix(bHLH)型転写因子であるNeuroDを同定した。このNeuroD遺伝子を神経幹細胞で発現させたところ、バルプロ酸処理によって見られたニューロン分化促進とグリア細胞への分化抑制が再現された。以上のことは、NeuroDがバルプロ酸の作用にとって重要な役割を果たしていることを示唆している4)。 Ⅴ.バルプロ酸の抗てんかん薬としての作用機序 これまで「バルプロ酸がなぜてんかんに効くか?」という問いに対する答えを模索すべく、様々な研究が行われてきた。バルプロ酸はGABA分解酵素であるGABAトランスアミナーゼを阻害し、抑制性シナプスでのGABA濃度を上昇させることが知られている。さらにGABAの再取り込み阻害、GABA受容体へのアゴニスト作用もあることから、抑制性ニューロンであるGABAニューロンを機能亢進させけいれんを抑制するといわれている。また、バルプロ酸はニューロンの生存促進効果があることも報告されている。 われわれは、てんかんと神経幹細胞の関わり、および神経幹細胞の増殖・分化に及ぼすバルプロ酸の影響に着目し、興味深い実験結果を得た5)。グルタミン酸受容体刺激剤であるカイニン酸を用いたてんかんモデルラットを使った実験では、記憶の中枢である海馬歯状回の神経幹細胞の増殖が促進され、異所性のニューロン新生が観察されるが、この新生ニューロンの樹状突起の伸長方向が不規則になっているのが観察された。そこにバルプロ酸を投与すると神経幹細胞の過度の増殖が抑制された結果、異所性ニューロン新生が阻害され、また不規則であった突起伸長方向の改善がみられた。これらにより、てんかんによって起こる異常発火の原因とそれを改善するバルプロ酸の新たな薬理作用が強く示唆された。またバルプロ酸投与により、てんかんによる海馬物体認識障害の改善もみられている。てんかんの原因はシナプスの伝達効率の異常、興奮性アミノ酸の放出亢進、GABAの放出減少、等が周知の事実であるが、ニューロンを生み出す神経幹細胞の増殖能の亢進やニューロン樹状突起の伸長方向の不規則性も、てんかんの病態に深く関わっており、それをバルプロ酸が改善するのかもしれない(図3)5)。 Ⅵ.バルプロ酸の損傷脊髄治療への応用 損傷脊髄治療に関して、神経再生の妨げになる損傷部の炎症を抑制するためにメチルプレドニゾロンを投与する方法、神経細胞の軸索伸展を促進するために神経栄養因子を投与する方法、軸索伸展阻害タンパク質の機能阻害抗体を投与する方法、軸索伸展を阻害するプロテオグリカンの分解酵素を投与する方法などがこれまでに試されているものの、劇的な治療効果はみられていない。さらに、損傷脊髄ではグリア細胞(特にアストロサイト)が増殖し瘢痕を形成することでニューロンの軸索伸長が阻害されることも知られている。また損傷脊髄内では、神経幹細胞からアストロサイトへの分化を促進するサイトカイン群の発現上昇がみられ、移植および内在性神経幹細胞の多くはアストロサイトへと分化してしまい、軸索も修復されず下肢運動機能改善はほとんどみられない。 (以降はPDFを参照ください)
著者
あべ松 昌彦 Hsieh Jenny Gage Fred H. 河野 憲二 中島 欽一
出版者
日本毒性学会
雑誌
日本トキシコロジー学会学術年会 第35回日本トキシコロジー学会学術年会
巻号頁・発行日
pp.41, 2008 (Released:2008-06-25)

遺伝子発現はクロマチンを構成するヒストンのアセチル化や脱アセチル化によってそれぞれ正、負に精妙に制御されている。我々はヒストン脱アセチル化酵素阻害剤により神経幹細胞内のヒストンアセチル化状態を亢進させ、それが分化に及ぼす影響を検討した。実験には長らく抗癲癇薬として利用され最近ヒストン脱アセチル化酵素阻害剤としての活性が明らかにされたバルプロ酸を使用した。その結果、バルプロ酸による神経幹細胞の劇的なニューロン分化促進が観察された。さらに神経幹細胞の分化をグリア細胞(アストロサイト及びオリゴデンドロサイト)へと向かわせる培養条件下においてもバルプロ酸はグリア細胞分化を阻害しつつニューロン分化を促進できることが分かった。ところで、損傷脊髄などでは神経幹細胞からアストロサイトへの分化を誘導するIL-6を含めた炎症性サイトカインの高発現が誘導される。そのため内在性及び移植神経幹細胞のほとんどがアストロサイトへと分化してしまい、結果としてグリア性瘢痕を形成することで、ニューロン新生や軸索伸長が妨げられてしまうという問題点が明らかとなっている。そこで我々は「アストロサイト分化を抑制し、ニューロン分化を促進できる」というバルプロ酸の作用に着目した。そこで、脊髄損傷モデルマウスにバルプロ酸処理した神経幹細胞を移植したところ、通常はほとんど見られないニューロンへの分化が観察され、また非移植対照に比して顕著な下枝機能回復が見られた。以上の結果は、抗てんかん薬バルプロ酸の新たな用途として、損傷神経機能回復へと応用できる可能性を示唆している。