著者
中村 ともえ
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.106, pp.279-294, 2015

特集 : 領事館警察の研究大正末の「戯曲時代」には,多くの戯曲集が刊行され,雑誌の創作欄に多くの戯曲が発表され た。この時期,戯曲は小説と同様,読むものとして流通し受容されていたのである。本稿では, この時期の谷崎潤一郎の二つの戯曲,『愛すればこそ』と『お国と五平』を取り上げ,読むものとしての戯曲がどのような表現を作り出していたかを明らかにした。戯曲時代には,谷崎や正 宗白鳥など小説家として名の知られた作家たちが戯曲の制作に取り組んだが,それらの諸作は 「小説的」と形容され,戯曲史の上では概して評価が低い。たとえば『愛すればこそ』『お国と 五平』は,登場人物たちがほとんど動かずに堂々巡りの議論を行い,その台詞は冗長である。 そのため上演に当たっては,俳優に動きをつけ,台詞を削ることが望ましいとされてきた。本稿では,谷崎の戯曲の台詞が備えるこの冗長な文体を,読むものとしての戯曲が作り出す,小 説ではなく戯曲の形式においてはじめて可能となる表現として捉えなおした。まず,『愛すればこそ』『お国と五平』のト書きが谷崎の旧作と比べて簡潔であること,特に『愛すればこそ』は改稿過程で台詞を発する人物の様子を描き出すト書きを多数削除していることに着目した。次 に,松竹大谷図書館が所蔵する『お国と五平』の上演台本を調査し,戯曲と対照した。台本で は一つの台詞,また一つながりの台詞がまとめて削除されており,それによって戯曲にあった台詞と台詞の言葉の上での連続性が失われている。『愛すればこそ』『お国と五平』では,台詞 はト書きの機能を代替するような語句を含み,また直前の台詞の中のある語句を反復し反転して連なる。これらの語句は,人物と人物が相対する場面の中の発話としては過剰であり不要で あるが,それによって台詞は発話に回収されない表現を作り出しているのである。