著者
丹羽 文生
出版者
拓殖大学海外事情研究所附属台湾研究センター
雑誌
拓殖大学台湾研究 = Journal of Taiwan studies, Takushoku University (ISSN:24328219)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.1-25, 2019-03-08

1957 年6 月,首相の岸信介は第1 次東南アジア歴訪の最後の訪問地として台湾を訪れ,その際,初めて総統の蔣介石との対面を果たした。以来,岸は足繁く台湾に通うようになり,蔣介石との信頼関係を築き,刎頸の交わりを結んだ。やがて岸は自民党における「親台派の中心人物」となっていく。1971 年10 月の国連脱退,翌年9 月の日中国交正常化による断交後も変わらぬ交流を続け,蔣介石逝去に際しては大規模な弔問団を率いて台湾に飛び,生誕100 周年の時も「以徳報怨」を金看板に蔣介石を讃える国民運動を全国で繰り広げた。しかし,岸は無条件に蔣介石を賛美していたわけではなかった。少なからず不信感を抱いていたことも事実である。2 人の個人的関係は戦後日台関係史を語る上でも重要なファクターであるが,それを単独で扱った先行研究は皆無である。本稿では主に台湾側の外交史料を用いながら,当時を知る人物へのインタビューも交え,その蜜月関係の内実を検証していく。
著者
丹羽 文生
出版者
拓殖大学海外事情研究所附属台湾研究センター
雑誌
拓殖大学台湾研究 = Journal of Taiwan studies, Takushoku University (ISSN:24328219)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.1-22, 2021-03-25

自民党青年局は長年に亘って台湾との交流事業に取り組んできた。1972年9月の日中国交正常化により台湾との外交関係が途絶しても変わることなく続いている。中でも,歴代青年局長の台湾に対する思い入れは強く,日台間で政治的なトラブルや課題が出て来る度に,水面下で先方との交渉に当たり,その解決に努めてきた。青年局長は「総理の登竜門」と称される。実際,歴代青年局長のうち,竹下登,宇野宗佑,海部俊樹,安倍晋三,麻生太郎が,その後,首相にまで上り詰めている。将来の日本を背負って立つことが期待される若手の面々が集う青年局の存在は,台湾にとっても日本との実質外交を展開する上での重要なチャンネルと言えよう。本稿では青年局と台湾との関わりを,日本,台湾双方の外交史料に加え,交流がスタートした際に,これに参画した人物の証言を交えながら,その歴史的諸相を明らかにしていく。
著者
丹羽 文生
出版者
拓殖大学海外事情研究所附属台湾研究センター
雑誌
拓殖大学台湾研究 = Journal of Taiwan studies, Takushoku University (ISSN:24328219)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.1-22, 2018-03-25

1972 年9 月29 日,田中角栄と周恩来との間で「日中共同声明」が交わされ,日中国交正常化が実現した。それに伴って日本は,日華平和条約に基づき過去20 年間に亘って外交関係を維持してきた台湾の「中華民国」と国交を断絶した。しかし,外交関係は断たれたものの,経済,貿易,技術,文化といった実務関係は従来通り維持していくことで合意し,その結果,双方の窓口となる「民間団体」として,日本側に「交流協会」,台湾側に「亜東関係協会」という実務機関が設置される。それ自体は周恩来も容認していた。ただ,設立に至るまでの「外交関係なき外交交渉」は難航を極めた。中でも最大の焦点として浮上したのが,日本側の実務機関の名称問題だった。台湾側は「中華民国」という国号,あるいは,それを意味する「華」の文字を入れるよう求めるが,日本側は通称として用いられる「台湾」を表す「台」の文字を入れることを提案する。台湾側にとっては自らの正統性に関わる事案である。しかし,日本側とすれば日中共同声明で「中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認」した以上は「中華民国」の存在を肯定するような表現を用いるわけにはいかなかった。この間,日台間で,どのような鍔迫り合いが演じられたのか。本稿では,主に台湾側の外交資料を用いながら,その実相を描いていく。
著者
丹羽 文生
出版者
拓殖大学国際日本文化研究所
雑誌
拓殖大学国際日本文化研究 = Journal of the Research Institute for Global Japanese Studies (ISSN:24336904)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.169-187, 2023-03-25

第二次世界大戦後、日本の敗戦に伴って蔣介石率いる「中華民国」政府(国府)に接収された台湾に、中国大陸から続々と中国兵や民間人がやって来た。彼らは汚職、腐敗に加え、強盗、万引き、強姦といった暴虐の限りを尽くし、社会全体が乱れに乱れた。そして、ついに台湾の人々の憤怒が爆発し、一九四七年二月二八日、民衆蜂起「二・二八事件」が起こった。すると間もなく中国大陸から派された国府の援軍による無差別殺戮が始まり、反体制派と見做された多くの台湾人が投獄、処刑された。犠牲者数は三万人近いと言われている。これを機に日本に亡命、生涯に亘り「中華民国」体制からの「独立」を目指し台湾独立運動に挺身したのが王育徳だった。本稿は、王育徳が中心となって結成された「台湾青年社」の機関紙『台湾青年』第六号(一九六一年二月二〇日)の「二・二八特集号」のうち、事件の顛末を綴った「二・二八事件日誌」と、王育徳のエッセイ「兄王育霖の死」を、解説を附して翻刻したものである。
著者
丹羽 文生
出版者
渋沢栄一記念財団
雑誌
青淵 (ISSN:09123210)
巻号頁・発行日
no.863, pp.14-16, 2021-02
著者
丹羽 文生
出版者
拓殖大学海外事情研究所附属台湾研究センター
雑誌
拓殖大学台湾研究 = Journal of Taiwan studies, Takushoku University (ISSN:24328219)
巻号頁・発行日
no.3, pp.1-25, 2019

1957 年6 月,首相の岸信介は第1 次東南アジア歴訪の最後の訪問地として台湾を訪れ,その際,初めて総統の蔣介石との対面を果たした。以来,岸は足繁く台湾に通うようになり,蔣介石との信頼関係を築き,刎頸の交わりを結んだ。やがて岸は自民党における「親台派の中心人物」となっていく。1971 年10 月の国連脱退,翌年9 月の日中国交正常化による断交後も変わらぬ交流を続け,蔣介石逝去に際しては大規模な弔問団を率いて台湾に飛び,生誕100 周年の時も「以徳報怨」を金看板に蔣介石を讃える国民運動を全国で繰り広げた。しかし,岸は無条件に蔣介石を賛美していたわけではなかった。少なからず不信感を抱いていたことも事実である。2 人の個人的関係は戦後日台関係史を語る上でも重要なファクターであるが,それを単独で扱った先行研究は皆無である。本稿では主に台湾側の外交史料を用いながら,当時を知る人物へのインタビューも交え,その蜜月関係の内実を検証していく。