- 著者
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澤田 次郎
- 出版者
- 拓殖大学国際日本文化研究所
- 雑誌
- 拓殖大学国際日本文化研究 = Journal of the Research Institute for Global Japanese Studies (ISSN:24336904)
- 巻号頁・発行日
- vol.4, pp.75-228, 2021-03-25
本稿は一八八六(明治十九)年から一八九六(明治二十九)年にかけて、陸軍参謀本部の情報将校・福島安正がユーラシア大陸で行った四つの視察旅行を検証した。すなわち、①英領インド調査、②バルカン半島視察、③シベリア単騎横断旅行、④亜欧旅行(とくにペルシャと中央アジア)である。これらを通観した上でいえることは、第一に福島の視野の広さである。ベルリン駐在時の福島は任地のドイツ軍や独露国境地帯のロシア軍の兵力を調べるとともに、ロシアの中央アジア鉄道、シベリア鉄道建設に注目してその動きを追うなど、ユーラシア大陸全体に目を配っていた。第二にヨーロッパ、中近東、中央アジア、インド、新疆、モンゴル、シベリアをめぐるロシアの動向を、東アジア、日本とリンクさせながら地政学的に観察していることである。ユーラシア大陸という大きなチェスボード全体を見渡しながら、福島はロシアの黒海・中近東、アフガニスタン、北東アジアへの南下の動きを総合的、有機的に捉えていた。第三にインド調査を除く三つの旅行を自分で企画、提案、実行したことである。その際、一つの旅行が次の課題を生み、さらに新たな旅行へとつながっていった。その結果として、第四に福島は、ロシアをその南部周縁部から監視するラインを創造した。すなわちトルコ─ペルシャ─中央アジア、モンゴル─満洲─シベリアのラインである。その萌芽は遅くともバルカン半島視察時の一八八九(明治二十二)年十二月に見ることができる。以後、このロシア監視ラインの視点が陸軍情報部の伝統となり、そうした発想が一九三〇年代における昭和陸軍の「防共回廊」構想につながっていくと考えられる。