著者
加納 靖之 橋本 雄太 中西 一郎 大邑 潤三 天野 たま 久葉 智代 酒井 春乃 伊藤 和行 小田木 洋子 西川 真樹子 堀川 晴央 水島 和哉 安国 良一 山本 宗尚
出版者
日本地球惑星科学連合
雑誌
JpGU-AGU Joint Meeting 2017
巻号頁・発行日
2017-03-10

京都大学古地震研究会では,2017年1月に「みんなで翻刻【地震史料】」を公開した(https://honkoku.org/).「みんなで翻刻」は,Web上で歴史史料を翻刻するためのアプリケーションであり,これを利用した翻刻プロジェクトである.ここで,「みんなで」は,Webでつながる人々(研究者だけでなく一般の方をふくむ)をさしており,「翻刻」は,くずし字等で書かれている史料(古文書等)を,一字ずつ活字(テキスト)に起こしていく作業のことである.古地震(歴史地震)の研究においては,伝来している史料を翻刻し,地震学的な情報(地震発生の日時や場所,規模など)を抽出するための基礎データとする.これまでに地震や地震に関わる諸現象についての記録が多数収集され,その翻刻をまとめた地震史料集(たとえば,『大日本地震史料』,『新収日本地震史料』など)が刊行され,活用されてきた.いっぽうで,過去の人々が残した膨大な文字記録のうち,活字(テキスト)になってデータとして活用しやすい状態になっている史料は,割合としてはそれほど大きくはない.未翻刻の史料に重要な情報が含まれている可能性もあるが,研究者だけですべてを翻刻するのは現実的ではない.このような状況のなか,「みんなで翻刻【地震史料】」では,翻刻の対象とする史料を,地震に関する史料とし,東京大学地震研究所図書室が所蔵する石本コレクションから,114冊を選んだ.このコレクションを利用したのは,既に画像が公開されており権利関係がはっきりしていること,部分的には翻刻され公刊されているが,全部ではないこと,システム開発にあたって手頃なボリュームであること,過去の地震や災害に関係する史料なので興味をもってもらえる可能性があること,が主な理由である.「みんなで翻刻【地震史料】」で翻刻できる史料のうち一部は,既刊の地震史料集にも翻刻が収録されている.しかし,ページ数の都合などにより省略されている部分も多い.「みんなで翻刻【地震史料】」によって,114冊の史料の全文の翻刻がそろうことにより,これまで見過ごされてきた情報を抽出できるようになる可能性がある.石本文庫には,内容の類似した史料が含まれていることが知られているが,全文の翻刻により,史料間の異同の検討などにより,これまでより正確に記載内容を理解できるようになるだろう.「みんなで翻刻」では,ブラウザ上で動作する縦書きエディタを開発・採用して,オンラインでの翻刻をスムーズにおこなう環境を構築したほか,翻刻した文字数がランキング形式で表示されるなど,楽しみながら翻刻できるような工夫をしている.また.利用者どうしが,編集履歴や掲示板機能によって,翻刻内容について議論することができる.さらに,くずし字学習支援アプリKuLAと連携している.正式公開後3週間の時点で,全史料114点中29点の翻刻がひととおり完了している.画像単位では3193枚中867枚(全体の27.2%)の翻刻がひととり完了している.総入力文字数は約70万字である.未翻刻の文書を翻刻することがプロジェクトの主たる目的である.これに加えて,Web上で活動することにより,ふだん古文書や地域の歴史,災害史などに興味をもっていない層の方々が,古地震や古災害,地域の歴史に関する情報を届けるきっかけになると考えている.謝辞:「みんなで翻刻【地震史料】」では,東京大学地震研究所所蔵の石本文庫の画像データを利用した.
著者
久葉 智代 クバ トモヨ Tomoyo KUBA
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2023

総研大甲第2382号
著者
久葉 智代 Tomoyo KUBA くば ともよ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.16, pp.1-15, 2020-03

本論文では、八世紀における大和国周辺のどのような場所が境界とされていたのか、そしてその境界がどのように認識されていたのかを、自然と人工の両面から検討する。主に以下の二点に着目する。一つ目は、自然地形と交通路との関係である。『日本書紀』の改新詔にみられる畿内堺のように、古代における境界は山や川を一つの区切りとしている。その境界とは、現代のように明確な線を引いたものではなく、ある地点から見た各方角の一地点を代表させたものである。大和国に目を向けてみると、『万葉集』では、北・南・西の各方角において、奈良山・真土山・生駒山・龍田山というそれぞれの山が境界として認識されている。これは、いずれも平城京からの交通路上に位置する山である。東の境界のみはほとんど現れないが、平城京から東へ向かうには、直接東方の山を越えるのではなく、一旦南下する必要があり、交通路を基にした境界認識を持っていた当時の人々にとっては、東へ向かうという体感が乏しかったことがその一因であると考える。二つ目は、祭祀と境界との関係である。境界で行われる祭祀として、「手向け」がある。交通路の主要な地点(主に坂や峠)において安全を祈る行為であるが、前述した大和国周辺の山が手向けを行う場となっていることが『万葉集』からわかる。 また、都城や畿内の境界において行われる疫神祭祀について、「疫神が交通路を通じて入ってくる」という指摘は従来からなされている。加えて、『日本書紀』の記事の中で、大和国の周辺で祭祀を行ったとされる場が、交通路上で境界とされる山々と一致している。祭祀における境界も、交通路が基になっていることがわかる。ある地点を境界として認識するということは、単なる景物に境界性を与えるのではなく、自らが交通路を利用して移動する際の状況を投影したものであった。この時代の境界とは、現代のように俯瞰で正確な地形を捉え、明確な線を引くものではなく、曖昧な幅を持ったものであったといえる。そのような境界に囲まれた空間の把握についても、明確な領域の意識があったのではなく、自身の経験と認知によるものであったと推測される。This paper discusses the boundaries in Yamato from both artificial and natural perspectives. The following two points are discussed.First, the relationship between the natural terrain and traffic routes is discussed. In ancient Japan, mountains and rivers were considered to be boundaries, as in the case of the boundaries of Kinai referred to in Kaishin no mikotonori in Nihon-shoki. The boundaries, however, were not clearly indicated lines, but served as landmarks representing directions. In the case of Yamato, Mt. Nara, Mt. Matsuchi, Mt. Ikoma and Mt. Tatsuta were considered to be boundaries in the north, south and west respectively. All these mountains are located on the traffic route from Heijo-kyo. The boundary on the east side of Yamato is not clear because people had to go south before heading east. It might have been difficult for people performed boundary recognition based on the traffic route to have a sense of going east.Second, the relationship with rituals held at the boundary is discussed. One such ritual is Tamuke, a prayer safe travel at the major points on the road, for example, in the mountains. According to Man'yoshu, the mountains around Yamato are mentioned above were places for rituals.It has been pointed out that the rituals were conducted on the boundaries of the capital and Kinai, because Ekijin (gods that bring illness) were considered to enter through the traffic route. Furthermore, the places where the rituals were thought to have been conducted correspond to the mountains that were regarded as boundaries. It is obvious that boundaries used for rituals were the basis for the traffic routes.When a specific point was recognized as a boundary, it did not mean that the boundary was simply a natural feature, but provided certain situations when people travel on the traffic route. The boundaries in those times were of ambiguous width, unlike today's clear lines. It is assumed that the recognition of space was based on people's experience and perception.