著者
Barbara Charles 亀谷 乃里
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.36, pp.134-110, 2003

ある名演奏家の生涯の素描(1)シャルル・亀谷 乃里バ ル訳バラ 作・解説解説 シャルル・バルバラは一八一七年オルレアンで楽器製造業を営むドイツ生れの父とオルレアン生れの母との 間に生れた。↑)兄は後にピアニスト、オルガニストで、かつ作曲家となり、三弟はピアノ調律師となる。(三シ ャルルはこうしたいわば音楽的風土に育った。若くしてパリに出た彼はボードレールと同じルイ・ル・グラン コンセルヴァトワ ル 中学校で学業を終え、一時はパリ音楽院で勉強したこともあった。三自然科学に強い関心をもっていた エコ ル ポリテクニック 彼は理工科学校に学ぼうと考えていたが、(5)文学を聖域と考え、転じてその道に身を投じた。(、)アンリこ、丶 ホ エ ム ユルジェールの「放浪芸術家の生活情景」にカロリュス・バルブミュッシュ〔9『。一⊆。・ロコ碧げ。詈魯ρσ㊤ひ。(ひげ) とσ碧9お(粗野な)とをかけ、∋⊆魯o(若い娘に声もかけられない恥ずかしがり屋の青年)とで合成した名前〕という滑稽 な名前で登場するのはシャルル・バルバラ彼自身である。(ヱしかし当時バルバラはひげもなければ粗野でも四 なかった。彼は孤独で極端に非社交的で、仲間内でも黙って耳を傾け、ポケットからノートを取り出してはメ133(2)モを取っていた、とシャンフルリは回想している。〔、) ロマン主義から自然主義への移行期の芸術家達、シャンフルリ、ミュルジェール、哲学者のジャン・ヴァロン、画家のクールベなど自称レアリスト達の集まったグループ〈ラ・ボエーム〉にバルバラが受け入れられたのは一八四一年の暮である。(,)彼らはそれまでのロマン主義に反旗を翻し新しい道を模索していた。そうし コルセ ル コルセ ルロ サタンてその活動の中心である小新聞、『海賊』紙『海賊11悪魔』紙に寄稿し、互いに助け合った。バルバラが、『悪 ラ ル の フ ル ロラ ル カリアテデノドの華』の詩人ボードレールや〈芸術のための芸術〉の信奉者で『女像柱』の詩人バンヴィルと知り合うのもこうした中であった。〔m) 音楽は、〈ラ・ボエーム〉での重要な活動領域であった。優れたヴァイオリン奏者であったバルバラは第一ヴァイオリン、シャンフルリはセロ、画家のアレクサンドル・シャンヌがヴィオラ、後にリリック座のヴァイ グリセノトオリン奏者となるオリヴィエ・メトラが第ニヴァイオリンを受け持ち、この四重奏団は学生や女 工 を前にコンサートを催したこともあった。(H)バルバラの音楽活動はシャンフルリの『若き日の回想と肖像』(E)や「サン・ルイ島の四重奏団」、(B)「シュニゼルの三重奏」(回)等に詳しく述べられている。絵画的素養はあったものの、音楽の分野ではこれといって教育を受けていなかったボードレールが初めて音楽に親しんだのも、親友であったバルバラとその周囲に集まった音楽をする人達の中であった。(垣バルバラの作品はしばしば、多様な音楽的要素を含み、音楽的情感と感動に浸透されている。(博)ちなみにワーグナーのパリ初演(一八六〇)に際して書かれたシャンフルリのワーグナー論はバルバラに献じられている。(7) バルバラの文学の領域でのデビューは一八四四年のπ轜粒邸一だと考えてよい。(侶)この年には一八四六年 コルセ ルに『海賊」紙に発表することになる贋金造りの物語で探偵小説の先駆をなす「ロマンゾフ」がすでに書き上げられる。〔円)その後「カーテン」(一八四六)等幾編かの朗、癌.醒,でかつ心理的な短篇を『却術須』誌に発表^20)132(3)ある名演奏家の生涯の素描(1)した後、一八四八年の革命の頃には故郷のオルレアンのいくつかの新聞編集に携わりなが舷む自らの作品やパ リの友人達の作品、それにエドガー・ボーの作品の翻訳{2)を掲載する。
著者
亀谷 乃里
出版者
女子栄養大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1986

バルバラの生涯と未発見作品並びに彼に関する批評の発堀作業の結果報告。1.Soci【e!´】t【e!´】 des gens de lettres所有の古文書から(1)1846年12月8日付、協会長宛のバルバラの手紙(入会願い)(2)1847年1月6日付、バルバラの入会確認書、(3)1872年12月2日付、墓石商未亡人の協会宛の手紙(バルバラの基地使用期限切れの件)(4)1882年12月2日付、バルバラの弟、ジョルジュの協会長宛の手紙(シャルル・バルバラの遺児のため奨学金依頼の件)、以上を発見。(1)にはそれまでに発表されたバルバラの作品リスト及び寄稿したp【e!´】riodiguesの記載があり、中には未発見作品も含まれp【e!´】riodiguesに実際当って次の作品と事実が発見、判明した。・"Un Chiffonnier,"Almanach populaire de la France,Paris,1845,pp.95-100;・"O【u!`】est le drame? O【u!`】est la farce? Un Paillasse",Le Tam-Tam,11 sept,1836;・Le Conteur Orl【e!´】anais(recueil),Orl【e!´】ans,1845に寄稿;・Le Corsaire,Le Corsaire Satanに寄稿し始めた年が1845年又は1846年と判明。・1846年にバルバラがN゜2 M.le Princeに居住した事実が判り、シャンフルリの『回想』の中で語られている諸事件の年代が判り、以後の調査のための大きな手懸りを得た。(2)よりバルバラの文芸家協会入会年月日が判明。2.バルバラの友人ナダールの寄稿を手懸りに、・"Le Tems la Vie et la Nourriture 【d!´】unHomme,Le Commerce,24nov.1843を発見。3.バルバラの二児の出生証明書を発見しその名前と出生年月日が判明、(Marie Charles Eug【e!`】ne Antoine,1862年10月22日;Pierre Gabriel,1864年12月3日)、4.義母とGabrielの死亡証明書を発見し、バルバラとその妻、息子の一人、義母が5日間で相次いで死亡したことが判明。5.Arthur Pouginによるバルバラの記事、"Charles Barbara",La France musicale,7 oct.1866を発見。この中で未だ知られていないバルバラの作品の題"Organiste"があげられていて、以後の作品発見の手懸りを得た。