著者
藤崎 康
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.36, pp.108-54, 2003

核時代の使徒ーJ・G六徒ラバ1ウドロ『ヴィーナスの狩人』を読むー藤崎 康どうして私の人生を、そうでないかもしれないではなく、けずにいられたでしょうか?そうかもしれないほうにこそ賭ルネ・ドーマル『類推の山』1聖性のゆくえ、あるいはフエイクな神? フランケンシュタイン神話は、科学的合理主義に対抗して、科学の諸概念を、錬金 術の神秘や感情と再結合しようとした、十九世紀のロマン主義的反抗に由来する。 デイヴィッド・J・スカル『マッド・サイエンティストの夢-理性のきしみ』 英国のSF作家J・G・バラードに、『ヴィーナスの狩人』(一九六七年)という、ちょっと類を見ないよう伽 な傑作がある。この短編がとてつもなく面白いのは、バラードが科学と魔術の、あるいは合理と非合理の対決㎜ ・ん を、SFや幻想小説や文明批評の手法をもちいながらも、そうした手法ないし意匠に淫することなく、むしろ107(28)登場人物の心理や意識のひだを精妙に描くことで、きわめてユニークな物語に仕あげているからだ。バラードはこの作品でまた、近代合理主義(理性信仰)という、今やさまざまな揺らぎやほころびを見せているものの、依然として私たちの生活を律している「教義」i一八世紀の西欧で確立した啓蒙思想、すなわち「理性の光」ですべてを吟味しようとする知的態度の延長上にあるーが支配する現代にあって、人知をこえた「聖なるもの」はいったいどんな場所に降りてくるのか、という重大な問いを投げかけている。 ここで、『ヴィーナスの狩人」の読解にはいるまえに、近・現代とはいかなる時代なのかを、おおまかに輪郭づけてみよう。1近代化にともなう都市化、高度な産業化、科学技術の飛躍的な発展、市場経済の圧倒的な拡大、そして大衆消費社会の到来によって、教養、芸術、観光、民俗、健康、エコロジー、美容、セックス、「癒し」等々、文化や肉体にかかわる一切が商品化され、情報化され、日常生活の利便性や快適さがめざましく増大するいっぽうで、地縁、血縁などの旧来の共同体が無残に掘り崩され、核家族化が進行し、伝統的な文 リサイクル化・芸能・芸術が衰退する(それらはキッチュー1まがいものとして再利用される)といった状況を生んだ。 ミ イズム また人びとは、他人への関心や共感力を極端に欠いた自分主義ーそれは「自分探し」「自分らしさ」といっ こまた気味の悪い言葉を生んだーに閉じこもり、濃やかな人間関係を避けるようになった。そしてかれらは、そ よ エ ト スれまで拠りどころにしていた生活規範や行動様式を手放し、いわば「自由」を獲得した代償として、寄る辺なさ、精神的空白にとらわれるようになったー。ごく粗雑にまとめれば、近・現代とは、そういった時代である。(↓それはまた、近代化目工業化のはてに世界が「脱魔術化」され(M・ウェーバー)、宗教が世俗化され、いきおい「聖なるもの」や「崇高さ」が見失われた時代1しかし同時に、非合理的な呪術や終末予言を売りものにする新種の宗教が、あるいはカリスマ待望や過剰なナショナリズムが、合理主義の影の部分に寄生する奇妙な時代でもある。へ,) もちろん、近代化の負の側面は、いまざつと触れたいくつかの間題にとどまらない。たとえば大量生産.大量消費は大量廃棄を生み、排気ガスによる地球温暖化、異常気象、熱帯雨林の破壊と砂漠化といった事態を生じさせた。そして今日の科学主義は、生命創造という「神の領域」さえ侵犯しよ
著者
林 栄美子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.49, pp.229-256, 2009

Mélanges dédiés à la mémoire du professeur OGATA Akio = 小潟昭夫教授追悼論文集序I. 一人称語りの手記とその3 つの系列について1) 第1の系列=「信じ難い出来事」についての記録・考察・その真相2) 第2の系列=不可能な愛の物語3) 第3の系列=愛と不死の成就へII. モレルと「私」の相似性についてIII. モレルの発明した「映像」をめぐってIV. 「刊行者註」についてV. 「映像」の観客について : それを見るのは誰か?VI. 『モレルの発明』の翻案作品について
著者
阿部 静子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.46, pp.171-201, 2008

森英樹教授・西尾修教授・高山晶教授退職記念論文集 = Mélanges offerts à Mori Hideki, à Nishio Osamu, et à Takayama Aki0.0. Tel Quel 誌と時代のパラダイム0.1. ソレルスが見たバタイユ0.2. 季刊文芸誌『Tel Quel』1.0. ジョルジュ・バタイユの遺産1.1. Tel Quel 誌とバタイユ1.2. 『 エロスの涙』1.3. 『 エロスの涙』とソレルス2.0. サルトルによる第1 の否認2.1. 「 新しい神秘家」2.2. バタイユの反論3.0. サルトルとカミユの確執3.1. カミユの苦悩3.2. サルトル『異邦人』論とサルトル・カミユ論争の落差3.3. バタイユによる擁護3.4. 「非-知について」の講演3.5. 論争以後のサルトルとジャンソン4.0. ブルトンによる第2 の否認4.1. バタイユとブルトンの軋轢と和解5.0. Tel Quel 誌の二様のスタンス5.1. アンチ・イデオローグ5.2. ブルトンへのオマージュ6.0. アラン・ロブ=グリエの存在6.1. ロブ=グリエとTel Quel誌の蜜月と決別6.2. ロブ=グリエの日本講演における「総括」と"Rien"について
著者
西尾 治子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.42, pp.137-144, 2006

「日本ジョルジュ・サンド学会」(2004年に「ジョルジュ・サンド研究会」から現学会名に改称)のおおまかな歴史を辿ってみると、1986年、Christiane Sand女史を招いてサンドの展覧会および講演会を開催している(東京・西武美術館)。以降、二十一世紀に入ってからは、仏文学会開催時に、年2回の研究会を開くという地道なサンド研究を続けてきた。サンド生誕二百年記念の国際学会が世界各地で開催され始めた2002年頃から、学会員が積極的に海外の国際サンド学会に参加しあるいは発表をおこない、国際交流に貢献した。2002年のイタリア ・ ベローナ国際学会、アメリカ ・ニューオーリンズ国際学会、2004年夏のフランス・スリズィ国際コロック、ブルボン宮で開催された「政治」を主題とするサンド国際シンポジウム、作家の故郷ノアンで開かれた仏政府の文化・コミュニケーション省主催によるサンド生誕二百年記念国家祝賀典、ラ・シャートルのコロックおよび記念行事などが例として挙げられる。本稿では、国際的にサンド研究の気運が高まる中で、東洋で初めて国際サンド・シンポジウムを開催した「日本ジョルジュ・サンド学会」の2003年から2005年の足跡を時系列的に追ってみたい。
著者
藤崎 康
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.37, pp.90-54, 2003

はじめに1 表現主義映画-カリガリからノスフェラトゥへIIIIIIIVVVI
著者
林 栄美子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.46, pp.203-228, 2008

森英樹教授・西尾修教授・高山晶教授退職記念論文集 = Mélanges offerts à Mori Hideki, à Nishio Osamu, et à Takayama Aki序章第1章 『灰色の魂』をめぐって1. クレリス/死者/肖像画2. ベル/死体/人形3. リジアの死 あるいは喪の拒絶4. 三枚の写真によるコンポジション クレリス=ベル=リジア5. クレマンス あるいは非イマージュ的記憶6. 死者たちのロンド第2章 『リンさんの小さな子』をめぐって1. 写真2. 人形
著者
Barbara Charles 亀谷 乃里
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.36, pp.134-110, 2003

ある名演奏家の生涯の素描(1)シャルル・亀谷 乃里バ ル訳バラ 作・解説解説 シャルル・バルバラは一八一七年オルレアンで楽器製造業を営むドイツ生れの父とオルレアン生れの母との 間に生れた。↑)兄は後にピアニスト、オルガニストで、かつ作曲家となり、三弟はピアノ調律師となる。(三シ ャルルはこうしたいわば音楽的風土に育った。若くしてパリに出た彼はボードレールと同じルイ・ル・グラン コンセルヴァトワ ル 中学校で学業を終え、一時はパリ音楽院で勉強したこともあった。三自然科学に強い関心をもっていた エコ ル ポリテクニック 彼は理工科学校に学ぼうと考えていたが、(5)文学を聖域と考え、転じてその道に身を投じた。(、)アンリこ、丶 ホ エ ム ユルジェールの「放浪芸術家の生活情景」にカロリュス・バルブミュッシュ〔9『。一⊆。・ロコ碧げ。詈魯ρσ㊤ひ。(ひげ) とσ碧9お(粗野な)とをかけ、∋⊆魯o(若い娘に声もかけられない恥ずかしがり屋の青年)とで合成した名前〕という滑稽 な名前で登場するのはシャルル・バルバラ彼自身である。(ヱしかし当時バルバラはひげもなければ粗野でも四 なかった。彼は孤独で極端に非社交的で、仲間内でも黙って耳を傾け、ポケットからノートを取り出してはメ133(2)モを取っていた、とシャンフルリは回想している。〔、) ロマン主義から自然主義への移行期の芸術家達、シャンフルリ、ミュルジェール、哲学者のジャン・ヴァロン、画家のクールベなど自称レアリスト達の集まったグループ〈ラ・ボエーム〉にバルバラが受け入れられたのは一八四一年の暮である。(,)彼らはそれまでのロマン主義に反旗を翻し新しい道を模索していた。そうし コルセ ル コルセ ルロ サタンてその活動の中心である小新聞、『海賊』紙『海賊11悪魔』紙に寄稿し、互いに助け合った。バルバラが、『悪 ラ ル の フ ル ロラ ル カリアテデノドの華』の詩人ボードレールや〈芸術のための芸術〉の信奉者で『女像柱』の詩人バンヴィルと知り合うのもこうした中であった。〔m) 音楽は、〈ラ・ボエーム〉での重要な活動領域であった。優れたヴァイオリン奏者であったバルバラは第一ヴァイオリン、シャンフルリはセロ、画家のアレクサンドル・シャンヌがヴィオラ、後にリリック座のヴァイ グリセノトオリン奏者となるオリヴィエ・メトラが第ニヴァイオリンを受け持ち、この四重奏団は学生や女 工 を前にコンサートを催したこともあった。(H)バルバラの音楽活動はシャンフルリの『若き日の回想と肖像』(E)や「サン・ルイ島の四重奏団」、(B)「シュニゼルの三重奏」(回)等に詳しく述べられている。絵画的素養はあったものの、音楽の分野ではこれといって教育を受けていなかったボードレールが初めて音楽に親しんだのも、親友であったバルバラとその周囲に集まった音楽をする人達の中であった。(垣バルバラの作品はしばしば、多様な音楽的要素を含み、音楽的情感と感動に浸透されている。(博)ちなみにワーグナーのパリ初演(一八六〇)に際して書かれたシャンフルリのワーグナー論はバルバラに献じられている。(7) バルバラの文学の領域でのデビューは一八四四年のπ轜粒邸一だと考えてよい。(侶)この年には一八四六年 コルセ ルに『海賊」紙に発表することになる贋金造りの物語で探偵小説の先駆をなす「ロマンゾフ」がすでに書き上げられる。〔円)その後「カーテン」(一八四六)等幾編かの朗、癌.醒,でかつ心理的な短篇を『却術須』誌に発表^20)132(3)ある名演奏家の生涯の素描(1)した後、一八四八年の革命の頃には故郷のオルレアンのいくつかの新聞編集に携わりなが舷む自らの作品やパ リの友人達の作品、それにエドガー・ボーの作品の翻訳{2)を掲載する。
著者
林田 愛
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.49, pp.131-153, 2009

序I: 精神病治療と外科手術II: パターナリズムの文学的表象 : 戦略としての「情報の操作」III: 疾患ではなく患者をIV. 慈父と医師むすびMélanges dédiés à la mémoire du professeur OGATA Akio = 小潟昭夫教授追悼論文集
著者
藤崎 康
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.49, pp.360-320, 2009

はじめに1 理由なき災厄2 アンチ・ミステリー、アンチ・サプライズとしてのサスペンス3 ヒッチコックのミステリー映画4 知りすぎてはいない主人公5 『知りすぎていた男』をめぐって6 多重化するサスペンスの渦7 視線の迷宮 : 『めまい』について8 ヒッチコック的サスペンスの臨界点としての『鳥』9 断片化(=非連続化)されるモチーフ10 食堂"タイズ"の場面をどう見るか?11 ゲームとしての過剰解釈=深読み12 終末論映画としての『鳥』?13 恋愛映画としての『鳥』?14 家族映画としての『鳥』?15 結語にかえてMélanges dédiés à la mémoire du professeur OGATA Akio = 小潟昭夫教授追悼論文集
著者
今村 純子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.49, pp.211-227, 2009

はじめに1 媒介としての「愛」 : マルクスからプラトンへ2 善と必然の矛盾をどう生きるのか3 数学 : 知と愛の合一結びにかえてMélanges dédiés à la mémoire du professeur OGATA Akio = 小潟昭夫教授追悼論文集
著者
小潟 昭夫
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.38, pp.11-45, 2004

2003年3月2日(日)に山形県鶴岡市慶応義塾大学鶴岡タウンキャンパスで「雷サミットII」が開催され、そのときに「ヴィクトル・ユゴーと雷の詩学」という題で発表しました。それを基にしてその後の研究成果を踏まえて本論を作成しました。フランス語でfoudre(雷)が(1)雷、雷電 (2)威力、激怒、制裁、懲罰を、特にcoup de foudre一目惚れを、残lair(稲妻)が、(1)稲妻、電光、(2)閃光 (3)輝き (4)瞬間的なひらめき、天啓 (5)エクレアを、 tonnerre(雷鳴)が(1)雷鳴、轟音 (2)雷のような (3)雷霆(らいてい) (4)雷鳴器を意味しております。foudreは雷の総称を指し、 残lairが光を、 tonnerreが音を指し示していることは明らかですが、もともとギリシア神話やラテン文学にそれらの淵源があると思われます。ギリシア神話において、ゼウス(ユーピテル)は気象学的現象、特に雨、あられ、雪、雷など天候の神でした。雷はゼウスが常に用いた武器でした。宇宙のあらゆる出来事は、ゼウスの管轄下にあると言っても過言でありません。ゼウスは前兆を与える者とみなされ、雷や電光もまた前兆とみなされていました。ゼウスは翼のある槍の形をした雷を携えていました。プロメテウスは自分の創造物を慰めるために、神々から火を盗み人間に与えました。ゼウスは、プロメテウスをオケアノス川のほとり近くにある高い岩につなぎ、毎日鷲にプロメテウスの肝臓を食べさせることで、彼を罰していた。こうした神話が、ヨーロッパの文学作品における参照の役割を演じていたことは想像に難くありません。もう少し詳しく検討してみますと、ギリシア・ラテン文学だけでなく、旧約聖書や新約聖書が、ヨーロッパの文学における雷のイメージ形成に大きく寄与していることが理解されます。
著者
de Guerin Maurice 金澤 哲夫
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.43, pp.78-65, 2006

モーリス・ド・ゲランGeorges-Pierre-Maurice de Guérin は一八一〇年八月四日タルヌ県アンディヤックの近く、ル・ケイラ(ル・カイラとも)Le Cayla の館に生まれ、同地で一八三九年七月一九日に死んでいる。二九年に満たない人生において残した作品は数少く(自ら焚書も行っている)、特に二篇の散文詩『ル・サントール』Le Centaureと『ラ・バカント』La Bacchante の作者として知られているが、他に著作として、『グロキュス』Glaucus を始めとする韻文詩、『緑のノート』Le Cahier vert(一八三二年から一八三五年にかけての日記)、『書簡』(家族や友人たち、特に姉ウージェニー宛の、そしてバルベー・ドールヴィイ宛の手紙)、そしてここに訳出を試みた『マリーの死についての瞑想』Méditation sur la mort de Marie がある。 この作品が捧げられているイポリット・ド・ラ・モルヴォネーHippolyte de la Morvonnais はマリーの夫で、モーリスが彼と知り合ったのは、ブルターニュ地方のラ・シェネーにおいてであった。﹁サン・ピエールの修道会﹂を主宰していたラムネーLamennais の許をモーリスが訪れたのは一八三二年一二月、そこでイポリットに出会ったのが翌年四月。その後アルグノンの谷にあるモルヴォネー宅を、八月、一一月(一週間)、一二月から一八三四年一月にかけて(四五日間)、と三回訪ねている。妻のマリーとも親しくなり、彼女に一篇の詩『アルグノンの周縁』Lesbords de L'Arguenon(一八三三年一一月一五日作)を捧げている。この間の一八三三年九月にラムネーは修道会を解散。一八三四年一月モーリスはモルヴォネー家を辞し(別れの場面と抑制された悲しみが『緑のノート』に一月二四日付で書き留められている)、パリに赴く。そこで一八三五年一月二六日、ある友人からの手紙によって、四日前の一月二二日にマリーが死んだことを知る。二月一杯、『緑のノート』にこの死について凝らした心の内の思いを繰返し綴っている(二月二日、九日、一二日、二七日)。そしてモーリスは『マリーの死についての瞑想』を書き、イポリット宛三月二一日付の手紙に同封した。彼はこの手紙を次のように書き始めている。 ﹁私はあなたに、友よ、私の思考の生のように脈絡を欠き、混乱して、表題のない数ページを送ります。大きな苦悩のように何か単純で静かなものを作りたかったのですが、私は自分を制御できずに、不吉な混乱に気が動転し、頭はある考えの激しさに酔い、色々とわけのわからない想像の中を駆け巡っています。私の知性の構成に深い欠陥を認めずにはいられないのは、特にこのような試練においてなのです。落ち着いた考えは知性の力を示します。ところがここでは、そして更に私がするすべてのことにおいては、これは、狂人の言葉のように、一貫性のない、痙攣して、いつでも突然中断する一つの創作以外の何でしょう。﹂ この手紙は『マリーの死についての瞑想』を著者自身がどのようにとらえていたかを明快に言い表していて興味深いが、それとともにこの作品には彼自身題をつけなかったことを語っている。そのため、これは一九一〇年にアナトル・ル・ブラーズAnatole le Braz によって『表題のないページ』Pages sans titre という題のもとに公表されたが、一九三〇年のアンリ・クルアールHenri Clouard 版で『マリーの死についての瞑想』と題され、以後、ベルナール・ダルクール編の全集(一九四七年)を含めて、後者を表題とすることが多かった。最近ではマルク・フュマロリ編の詩集を始めとして、前者の表題を用いる傾向にある。ここに訳出するに当って、表題は『マリーの死についての瞑想』とした。これはゲラン自身が与えた題ではないが、他方﹁表題のない数ページ﹂は手紙の中の一語句であり、これもまた著者が題として考えたものではない。ここでは、内容を卒直にわかりやすく伝えていると思われる方を選んだ。 アルベール・ベガンが『ロマン的魂と夢』の中で(Albert Béguin, L'Âme romantique et le rêve)、『マリーの死についての瞑想』をゲランの傑作としていることは知られている。一方、ゲランの全集を編纂したベルナール・ダルクールはこれを失敗作とみなし、翻訳できない詩を、詩人でもある翻訳者が翻訳しようとした一つの試みであると考えている。先に引用したゲランの手紙にある通り、著者自身これを完成した作品とはみなしていない。それどころか、自分の構成力の欠如を告白している。思いを寄せた女性の死という辛い経験が引き起した心の乱れも影響しているだろうが、錯綜する思い、抽象化へと赴く思考の歩みを手探りするかのようにして積み重ねる言葉やイメージが文章を時に不明瞭にしている。 翻訳に当ってできる限りテクストのシンタックスを尊重するべく努めたがなかなか首尾よくいかず、またそのために訳文が時として回りくどく、生硬になった。訳者の力不足にもよるが、もともと翻訳不能なものをフランス語で詩として書いたと言われ得るようなテクストを、更に日本語に翻訳しようとした困難さにもよる。 『マリーの死についての瞑想』の第一行からモーリスは、かつてイポリットとともに辿ったブルターニュの森の小径へと読者を導く。それは自然の小径であり、記憶の小径であり、夢想の小径であり、魂の小径であって、自然のそして心の風景の記述が追憶への巡礼に、抽象的な思考に、精神世界に通じる。テクストの歩みとともに言葉がイメージが絡み合い、いつしか言い難いものの回りを巡る―表現できない何かに到達しようとする試みのようである。語るのが本質的に難しいことがある。死をめぐって、不在をめぐって、生の根源をめぐって、魂の在り処をめぐって、言葉がもつれ暗中模索し、文章は錯綜し、不明の域をさ迷い始める。だがそこにこそこのテクストの陰翳や深みがあり、そして密かな香気が漂っているようにも思う。訳文の拙さが原文の姿を損なっていないことを願うのだが⋮⋮ 翻訳はマルク・フュマロリ版(Maurice de Guérin, Poésie, édition présentée, établie et annotée par Marc Fumaroli,Gallimard, «Poésie», 1984)に拠ったが、ベルナール・ダルクール編の全集(OEuvres complètes de Maurice deGuérin, texte étabi et présenté par Bernard d'Harcourt, Les Belles Lettres, 1947, 2 vol.)を適宜参照した。
著者
今村 純子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.46, pp.153-170, 2008

森英樹教授・西尾修教授・高山晶教授退職記念論文集 = Mélanges offerts à Mori Hideki, à Nishio Osamu, et à Takayama AkiIntroductionI. Présentation des trois grands courants de recherche sur la vie et l'oeuvre de Simone Weil au Japona) Shûichi Katô (1917-)b) Daisetsu Teitarô Suzuki (1870-1966)c) Michi Kataoka (1917-)II. La pensée de Simone Weil et les Japonais: les interprétations possibles et le danger lié à certaines d'entre ellesa) Simone Weil et Kitaro Nishida (1870-1945)b) La conception japonaise de la beauté et son ambiguïtéc) Le régime impérial et le système du chef de familled) Le sens de la poésie dans la vie quotidienne — de la perception japonaise de la beauté vers un jugement esthétique weilenPerspectives
著者
藤村 均
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.42, pp.35-45, 2006

1 Le moi fragmentaire2 Le temps comme négativité3 La Hantise de la mort
著者
田上 竜也
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.42, pp.81-95, 2006

以下に訳出するのは、ポール・ヴァレリーの未完草稿『ストラトニケー』の一部である。企図としては1922年頃に始まり、1930年から35年にかけて精力的に執筆され、さらに生涯書き継がれたこの作品草稿は、フランス国立図書館に収められ(Naf 19034 ff.76–302)全体で200葉以上の紙片からなる、ヴァレリー未完作品のなかでも大規模なものである。もとよりここでそのすべてを紹介することは不可能であり、また草稿全体を見通した詳細な分析も別の稿に委ねることとして、ここではユゲット・ロランティによって活字化された部分のなかから、対話下書き草稿を主として抄訳した。 作品の構想については既にいくつかの先行研究によってあきらかにされているが、主題はアングルによる、シャンティイおよびモンペリエ美術館にある絵画から触発されたものであり、その原作はプルタルコスの『対比列伝』(「デメトリオス」)に遡る。話の筋は主要な4名の登場人物、すなわちシリア王セレウコス(『カイエ』の構想ノート(C, XX, 714)によれば53歳)、王妃ストラトニケー(マケドニア王デメトリオスの娘。同15歳)、王子アンティオコス(1世ソーテール。同18歳)、 および医者エラシストラトス(同40歳)を軸に展開され、その中心となるのは王子の、年若い義母である王妃への道ならぬ恋と、それを知った王から王子への、王妃の譲渡である。 全体はプロローグおよび3幕(あるいはそれにエピローグを加えた)構成からなり、その内容は次のとおりである。まずプロローグでは門番の道化的な語りによる状況説明。第1幕では、王と王妃との会話。王は王妃に、原因不明の病床にある王子の自殺を阻むべく剣を盗むことを命じる。王と医者との対話。第2 幕では、剣がないことに気付いた王子の怒り。王子の病の原因を突きとめるよう命じられた医者による診察。肉体的な病気との最初の診断と王への報告。再び患者のもとに戻った医者の眼前を王妃が通り過ぎる。病の原因の発見。第3幕では医者の独白と王への報告。王の怒りと王子への殺意。王の独白につづく最後の決断。大団円となる登場人物による「4重唱」。 主要な登場人物4名のうち、老いや死の恐怖、愛の蹉跌に苦悩する王セレウコス(草稿では王妃との肉体的非交渉が想定されている)に作者ヴァレリーのもっとも直接的な投影を見出すのは容易だろう。カトリーヌ・ポッジィやルネ・ヴォーティェとの恋愛体験に由来するエロスの隘路や、現実的存在、時間内存在である自己を目の当たりにすることによる苦悩という主題は、この作品と、やはりエロスの惑乱から産まれた『天使』とを引き寄せるものである。けれども、王セレウコスのみがヴァレリーの分身であると考えるのは短絡にすぎよう。この作品もヴァレリーのそのほかの対話篇と同じく、ひとつの精神において営まれる内的対話を外在化したものであり、精神が保持する多様性を関係性のうちに表現したものといえるからである。その意味で4者はいずれも作者の反映というべき存在であり、相似的ないし相補的関係をなしながら生の全体を表現している。実際この4者は、老い、叡智(セレウコス)に対する若さ、行動力(アンティオコス)、知性、饒舌(エラシストラトス)に対する身体、寡黙(ストラトニケー)……という対称性のうちに配置されている。息子に対する情愛のうちに妻への愛を断念する王は、王子のうちに「別なる自己」を認めており、両者は「他」にして「同一」という明快なナルシス的鏡像関係を形成する。また一貫して受身な存在である王妃ストラトニケーにしても、現実的女性というよりもパルクやアティクテの造形を受け継ぐ、内的女性性の化身にほかならない。対称性にさらに着目するなら、王と王子の双方から愛される王妃のみならず、両者の対話相手となる医者エラシストラトスも同様に関係のなかで蝶番的な役割を担っており、彼は劇の演じ手かつ観察者として、生命の神秘や身体と精神との葛藤を代弁する語り手である。人物たちのそうした形式的配置が、生の循環を象徴する黄昏から夜明けにかけての時間軸に沿って、筋を展開させていく。 この作品はオリエント̶ギリシャ趣味による音楽劇として構想され、『アンフィオン 』や『 セミラミス』といった劇作の系列に属するが、 精神と身体、「檻のなかの鼠」によって象徴される苦悩の回帰などはエロス体験を直接の契機とし、対話篇『神的ナル事柄ニツイテ』と多くの共通点を持つ。最終的に『我がファウスト』に流れ込んでいく主題系を理解するうえで、欠くことのできない作品草稿といえるだろう。
著者
林田 愛
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.53, pp.1-26, 2011

序論1. ゾラ『豊饒』と医学的ユートピア1.1. 悪の源としての卵巣1.2. 卵巣摘出術の結末2. ヒステリー治療と卵巣摘出術2.1. 卵巣摘出術をめぐる外科先進国の医師たち2.2. 「外科的笑劇」 : 催眠と暗示結論
著者
佐野 満里子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.39, pp.57-77, 2004

マルト・ビベスコは1886年にブカレストで生まれたルーマニア人である。彼女の円熟期の小説に僅かながら日本の事物への言及がある。マルト・ビベスコは生涯に30冊近い著書をフランス語で書き、フランスで出版した。彼女の作品中、1945年パリ亡命の以前にルーマニア語に翻訳・出版されたのは一部だけである。両大戦間のルーマニア知識層はフランス語版で読むことが出来たのだ。この国はヨーロッパ東部でただ一つのラテン系の国で、言語がフランス語と近いことがあり、19世紀前半から上流階級では子弟を教育のためにフランス送り出していた。国内の教育制度がまだ整っていなかったのである。ルーマニアは初めワラキア・モルドヴァ両公国として起こり、15世紀にオスマン・トルコ帝国に征服されて300年間植民地にされた。十八世紀に入りトルコは弱体化したが、台頭してきたロシアの他にオーストリア等西欧先進国への従属を強めることとなる。1848年フランスの2月革命に刺激されて、パリで学んだルーマニアの若者達が祖国の統一と独立を目指し革命を起こすがロシアとトルコが協調して武力介入し制圧されてしまう。しかし1859年に両公国で同一人物クーザ公を共通の君主に選出して統一国家ルーマニアが誕生する。その後1881年にドイツのホーヘンツォルレン家のカロル一世を迎えてルーマニア王国となった。ロシア、トルコ、オーストリア・ハプスブルグ等の列強に囲まれ、ナポレオン三世の関心を引く中、国内貴族たちがまとまらず、ルーマニア語を解しない若い王を迎えるという解決策を取り独立国家であろうとした。
著者
井上 櫻子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.49, pp.9-28, 2009

Mélanges dédiés à la mémoire du professeur OGATA Akio = 小潟昭夫教授追悼論文集I. ドリールの著作活動と『想像力』II. ルソー主義者ドリール?III. 『想像力』に歌われるメランコリーの主題とサン=ランベールの『四季』IV. 百科全書的知の探求をめざして