著者
石山 洋 佐藤 達策 片桐 一男 板倉 聖宣 中山 茂 吉田 忠 酒井 シヅ 菅原 国香 中村 邦光
出版者
東海大学
雑誌
総合研究(A)
巻号頁・発行日
1991

南蛮文化導入期から顧みると,直接日本へ渡来した文物や学術よりも訪中したイエズス会士の著書を輸入して学んだ西洋科学技術の影響のほうが日本の文明に与えたものは大きかった。中国語訳された書物は、日本の最高に知的レベルの高い人びとが学びやすかったからである。江戸時代の前期はその消化に費やされた。とくにマテオ・リッチの業績が大きな影響を与えている。第2期として,蘭学興隆期がくる。ここでは,オランダ語の原書を日本人が直接読み,訳した。その訳語には,中国語訳の先例を探し,できるだけ,それを採用する努力がなされた。新訳語を造ることには消極的であった。しかし導入された知識は科学革命以後のもので,イエスズ会士がもたらしたルネサンス時代の訳語だけでは対應できず,止むを得ず新訳語の造語もおこなわれた。その過程を追ってみると,始めは音訳で入れ,次ぎに義訳へ訳し直す傾向が見られる。また直訳を志向しつつ,既存の義訳の蓄積も活用する傾向も指摘されている。別に留意されるべきことは,アヘン戦争後,中国へ進出した英米のミッションの新教宣教師による中国文の西洋知識普及書の存在である。これを利用した清朝知識の著作も含め,わが国へ紹介され,19世紀の西欧科学技術導入に影響を与えた。明治に入って,外来学術用語は多方面に滲透し,乱立した。情報流通の必要上,とくに教育上,訳語の標準化が求められてきた。政府直接ではないが,学協会を通じて,権威側で進められた。1880年代から開始された数学部門の例もあるが,訳語の統一が活発化するのは20世紀以後である。そこには先例となる中国語訳への依存は見られず、むしろ中国人の日本留学者などの手で,日本語訳が中国語訳の中に定着したりしている。各種の事例で例証することができた。