著者
利谷 信義
出版者
日本家族社会学会
雑誌
家族社会学研究 (ISSN:0916328X)
巻号頁・発行日
vol.4, no.4, pp.11-18,123, 1992-07-25 (Released:2009-08-04)
参考文献数
31

In this paper, I would like to show indirectly my expectation of family sociology by reviewing the history of family studies in the field of sociology of law. From the pre-war period, sociology of law in Japan has been stressing the importance of family (“ie” before the war) in the legal system. Post-war reform of the civil code and reorganization of the family register system gave ground for creation of “a Japanese style modern family” which is characterized as a nuclear family based on fixed sex-role differentation and as a basic unit of the industrial socienty. After the oil crisis of the 1970s, however, this Japanese-style modern family which could successfully produce efficient workers with family support seems to have been threatened as the result of such drastic changes as increases in the labor-force participation of women, growing equality between sexes, “individualization”, and destruction of family farming. This trend is quite common all over the world.For the purpose of finding a new paradigm suitable for this global change, we should accurately grasp the tangible aspects of social change while paying much attention to the structural relations of social phenomena.In order to attain this goal, we should at first clarify the discipline of each field and then promote cooperation between sociology of law and family sociology.

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著者
利谷 信義 森 實
出版者
日本法社会学会/有斐閣
雑誌
法社会学 (ISSN:04376161)
巻号頁・発行日
vol.1966, no.18, pp.140-210, 1966-04-20 (Released:2009-04-03)
参考文献数
17
著者
利谷 信義
出版者
東京大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1989

近代以後現代にいたる日本の司法制度は、陪審制度のつよいインパクトの下にあったことが改めて確認された。明治初期においては、すでに参坐制度の実施があった。これは、司法省の陪審法導入政策の一環であったことは明らかである。井上毅が陪審制度の導入につよく反対したことは、この参坐制度の経験によっている面もあると推測するが、残念ながら今の所確証を得ていない。ボアソナ-ドは陪審法の導入を、日本の司法制度の近代化と、条約改正に資するとの理由から推進した。これは井上毅の反対によって実らず、明治憲法下の裁判所構成法、刑事訴訟法も認めなかったが、明治30年代に入り、日本経済の発展と法体系の整備の下で、在野法曹の陪審制度の導入の動きが始まった。これが政友会の政治綱領の一つとなり、大正デモクラシ-の下で陪審法の成立に結実した。昭和初年の司法制度は、陪審法の実施によって、とくに捜査と立件の面においては影響された。もっとも、治安推持法などの陪審除外がその効果を減殺した。さらに戦時体制がその停止に追いこんだ。戦後の司法の民主化は陪審法の復活・改善を要求したが、司法部は参審の方向を推進し,しかしついにこれをも実現せず,裁判所法3条3項において、その将来の導入の可能性を認めたにすぎなかった。しかしその条項の存在は、その後の刑事訴訟法の改正や臨時司法制度調査会の審議において,つねに陪審問題を思い起させる役割を果した。とくに寃罪事件が明らかになると、日本の司法の民主制が、つねに国民の司法参加の観点から問題となり、最近では、各種の団体が陪審法草案の試案を発表するに至っている。このように、日本の司法制度における陪審制度のインパクトは、人々が一般に思っているよるも、ずっと深くつよいものがある。
著者
利谷 信義
出版者
東京大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1988

検察審査会は、戦後司法制度改革の一環として設置された。GHQ内部には、公判陪審制度、大陪審制度、裁判官・検察官の公選制度導入の動きも一部見られたが、現実化したのは最高裁判官の国民審査制度と検察審査会の制度であった。検査審査会制度の立法過程については、日本側の資料ではほとんど分らず、GHQ資料についても不明点が多い。但しGHQ担当官マイヤーズの論文により、GHQとしてはこの制度の教育的意義に重点をおいたことが明らかになっている。そのことは、検察審査会制度が、大陪審の逆の制度であって国民が訴追を決定するものでなく、検察官の不起訴処分を審査するものであること、しかも不起訴不当と起訴相当の議決に拘束力がないことによる。後者の点は、戦前の日本の陪審法の影響を認めてよいと考える。検察審査会に期待された教育機能は、おおむね充たされたと言ってよい。検察審査員OBは、この制度の意義を在任中に十分に認め、任期終了後自主的な協会を組織して広報活動にあたっている。この協会は、ほぼ検察審査会の所在地の大部分をカバーし、全国組織をもつに至っている。このような活動が、検査審査会の活性化を助けていることは疑いない。検査審査会事務局からの聞取りによれば、検察審査員達は、始めは就任にちゅうちょするが、任期終了時にはもっと続けてもよいというのが一般的なパターンであり、そのことが協会活動に接続している。また一般人のこの制度の周知度は、総理府の調査によれば、ほぼ20%を上まわる程度で推移している。もっとも昭和62年に東京検察審査協会が実施したアンケートによれば、周知度は38.3%となっており、都民の周知度は全国に比して格段に高いことが分かる。聞取調査の結果は、40年間大きな改正のなかったこの制度も、任期、候補者選定方法、議決の効力等再検討が必要であることを示している。