著者
前田 一馬
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2018年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.000322, 2018 (Released:2018-06-27)

Ⅰ.研究の背景と目的 本研究は長野県北佐久郡軽井沢を事例として、明治期における陸軍の脚気転地療養地として当該地が利用されたその実態と経緯を明らかにする試みである。 一般的に転地療養地と見なされてきた場所は、古来温泉地であったが、近代化とともに新たな環境が転地療養に適した場所として見いだされてきた。典型的には、明治期に海水浴場が、大正期に結核サナトリウム治療の適地としての高原が、西洋医学的な環境観の導入とともに、新たな療養地になったものと理解されてきた。 しかし、陸軍脚気療養地の実態を検討すると、早くも明治10年代には「高原」(高地)が陸軍の脚気転地療養地として見出されていた。日本の医学が漢方医学から西洋医学へと転換していくなかでも、脚気の治療法は、日本で知られていた漢方の療法である転地療養が行われていた。また、その後の陸軍(細菌説)と海軍(栄養欠乏説)の対立(脚気論争)は有名である(山下1988)が、細菌説の導入に先んじて、脚気転地療養が陸軍に導入されている。このように陸軍脚気療養地として、「高原」が加えられた経緯は、どのようなものであっただろうか。 本研究では陸軍の脚気治療を取り巻く軍医本部の動向・見解および軽井沢の環境を、陸軍関連文書や新聞記事等から検討することで、医学的見解や環境認識が、「高原」を療養地にふさわしいとする契機となったことを考察する。Ⅱ.陸軍の脚気転地療養地 脚気とはビタミンB1の欠乏による栄養障害性の神経疾患である。近世後期には白米の普及と米食偏重により「江戸煩い」等の名をもって都市的な地域で流行した。脚気の流行は明治期には国民病と言われるほど流行し、徴兵制のもとで組織化が進められていた軍隊、とりわけ兵数の規模が大きい陸軍で患者数は増大した。1875(明治8)年から刊行された『陸軍省年報』によると、脚気は、「天行病及土質病」として捉えられており、陸軍各鎮台の治療実施とその経過の報告は他疾病に比べて詳細である。原因は降雨後の溢水による湿気などによって生じる不衛生な空気や土壌が病根を醸成する一種の風土病と推察されており、空気の流れや汚水の滞留を防止する対策が取られている。治療法は「転地療法奇験ヲ奏スル」と転地療養が効果をあげていることがうかがわれる。1870年代の各鎮台の主な転地療養地は多くの場合、温泉地が選択されている。つまり、患者が発生した場所(兵営)を避けることが重視されており、古来療養の場とみなされた温泉地が転地先として選ばれたと考えられる。Ⅲ.転地療養地の拡大:軽井沢にみる療養に相応しい場所 1880年代以降、陸軍の脚気転地療養地には多気山、榛名山、軽井沢といった温泉地ではない「高原」(高地)が加えられていくことになる。1881年8月、「幽僻且清涼ニシテ最モ適当」な転地先として高崎兵営の脚気患者130名が軽井沢に送られた(『陸軍省日誌』『高崎陸軍病院歴史』)。当時の軽井沢には、まだ外国人避暑地は形成されておらず、温泉を持たない衰退した旧宿場町であったが、残存する旅館が患者を受け入れることができた。後年、日清・日露戦争と多くの脚気患者の転地療養地として利用されていく軽井沢で行われていた治療法は『東京陸軍予備病院衛生業務報告(後)』によると、気候療養と記録されている。このように、高原の気候が陸軍において注目されていたことがわかる。 現代医学からみると脚気の転地療養は対処療法に過ぎず、治療法として正しくなかったかもしれない。しかし、当時の医学的知識が活用され、健康を取り戻すための療養に相応しいとされる「環境」は確かに存在した。この陸軍脚気療養地としての軽井沢は、後年の結核の療養と結びつけられた高原保養地としての軽井沢とは、異なる分脈から見出された療養(癒し)の景観であったと思われる。こうした場所が発見されていく過程に見え隠れする、当時の健康と場所の関係を、転地療養地の実態や近代期の社会的文脈性のなかで考察し、今後検討すべき課題とする。〔参考文献〕山下政三1988. 明治期における脚気の歴史. 東京大学出版会.
著者
前田 一馬 谷端 郷 中谷 友樹 板谷 直子 平岡 善浩
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

Ⅰ.問題の所在<br>2011年3月に発生した東日本大震災から4年の歳月が経とうとしている。被災地域の復旧・復興のプロセスにおいては、まず災害に耐えうるまちづくりが課題とされ、講じられる復興策として、被災地域の建造環境の再構築が重要視されてきた。しかし、地域が培ってきた祭礼や文化活動の復興も同様に重要性を持っていることが、阪神淡路大震災の被災地域における研究で指摘されている(相澤2005)。そこでは祭礼に関わる住民の取り組みを取り結ぶ媒介として「記憶」が重要な役割をはたしてきた。 <br>本研究では、東日本大震災による被災地域である宮城県南三陸町志津川地区を対象として、震災後において変化を迫られ、消滅の危機さえある地域で行われてきた祭礼や年中行事にまつわる「記憶」を抽出した。さらに、そこで得られた情報を記録した「記憶地図」が、地域文化の継承に配慮した復興まちづくりに貢献する可能性を検討した。<br><br>Ⅱ.調査概要・研究方法 <br>対象地域において、古くから祭礼の運営や地域信仰の中心的な役割を担ってきた五つの神社(上山八幡宮・保呂羽神社・荒島神社・西宮神社・古峯神社)を取り上げ、それぞれの神社の関係者である禰宜・別当・世話人・氏子の計8名に対して聞取り調査を実施した。主な質問項目は、東日本大震災被災前の、①祭礼や年中行事の運営方法、祭礼における行列のルートの記憶、②祭礼とともにある場所・風景の「記憶」、③氏子の居住地区などコミュニティの広がり、④祭礼や神社と地域とのつながり、また、⑤震災後における祭礼の実態や神社と人々との関わりについてである。これら聞取り調査の結果得られた情報はGISを利用して地図上に記録し、祭礼にまつわる「記憶地図」を作成した。<br> また、聞取り調査における関係者の発話は音声データとして記録を行ない、それらは可能な限り文字データ化し、「記憶地図」と併せて利用した。なお、南三陸町における聞取り調査は、2014年8月26日から8月31日にかけて実施したものである。<br><br>Ⅲ.「記憶地図」が語るもの <br>志津川地区内の五つの神社は、五社会という組織を形成しており、上山八幡宮の宮司がすべての神社の宮司を兼任している。まずは、中心的な存在である上山八幡宮への聞取り調査の結果から作成した「記憶地図」(第1図)を検討した。秋の例大祭における稚児行列のルートをみると、この祭礼が子供の成長を地域社会にお披露目するという意味を持つことから、多数の氏子が居住する地区を取り囲むようなルートが、街をあげてさまざまな視点から調整されていた。例えば、志津川病院移転後には病室から稚児がみえるようにと、ルートを変更しており、地域社会の動向をふまえた柔軟性に富む運営が行われていた。また、上山八幡宮のルーツは保呂羽山と密接な関係があり、保呂羽山山頂、旧上山八幡神社の所在地と現上山八幡宮を結ぶ一直線のライン(祈りのライン)は由緒を確認する象徴的な景観上のしかけとなっている。 <br>以上のように、「記憶地図」は今まであまり可視化されることのなかった、地域で行われてきた祭礼の実態や意味づけされた場所の視覚的把握を可能とする。復興計画では、居住地の移転が計画されているが、神社へのアクセスは考慮されておらず、上山八幡宮の禰宜は、地域文化を継承する計画上の仕組みの必要性を主張している。すなわち、復興という建造環境を再構築する中で、祭礼に関わる人々の取り組みを取り結び、意味づけされた場所を新たに創り出すための装置が求められている。「記憶地図」は、これまでの祭礼で取り結ばれていた人々の想いを住民が自らの手で確認し、まちづくりの方向性を考えるための一つのツールになり得ると考えられる。<br><br>参考文献 &nbsp; <br>相澤亮太郎 2005. 阪神淡路大震災被災地における地蔵祭祀――場所の構築と記憶. 人文地理57-4: 62-75. <br><br>&nbsp;[付記] <br>本研究は、科学研究費・基盤研究C(25420659)「地域の文化遺産が被災後の復興に果たす役割に関する研究」(研究代表者:板谷直子)の助成を受けたものである。