- 著者
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剣持 久木
- 出版者
- 静岡県立大学
- 雑誌
- 基盤研究(C)
- 巻号頁・発行日
- 2003
1930年代のフランスについては、ファシズムの浸透度をめぐる論争がある。その際の焦点は、退役軍人フランソワ・ド・ラロック中佐の政治的位置付けである。本研究は、ラロックをめぐる実像と集合的記憶の乖離に注目した。ラロックは、1934年2月6日の反議会騒擾事件の際に最大の動員力を誇ったため、その秩序正しい行動にも関わらず、ファシズムの脅威の象徴的存在となった。「人民戦線の父」と呼ばれるゆえんである。一方、反人民戦線派にとっても、ラロックは逆の意味で「人民戦線の父」であった。2月6日以降の人民戦線結成の流れに対抗した、保守派大同団結の呼びかけにことごとくラロックは応じなかった。ラロックは、極右という左翼によるレッテルとは裏腹に、中道志向だったのである。とりわけ、1937年春の、ジャック・ドリオ提唱の自由戦線結成を拒絶したことで、保守派全体にとってラロックは「裏切り者」になった。かくして、左翼からのファシズム批判に加えて、ラロックには保守派からの、誹謗中腸の集中砲火が浴びせられことになる。それでもラロックは、大衆的な支持を飛躍的に伸ばし、その党勢は、仮に(戦争によって実現しなかった)1940年に総選挙が実施されていれば、第一党を獲得する可能性があった。ドイツ占領下のヴィシー体制のもとでラロックは、ペタン元帥を支持するもレジスタンスに関与するというスタンスをとる。結局ゲシュタポに捕らえられるが、解放後もフランス当局によって拘留が継続される。2年以上の獄中生活がたたってラロックは、レジスタンスの実績も認定されず、ファシストの汚名を背負ったまま病死する。本研究は、ラロックのファシズムイメージの形成過程に注目すると同時に、彼の死後に根強く残る集合的記憶としてのラロック像の推移にも光をあてた.とりわけ、「反論権」行使という形で、名誉回復に長年奔走するラロックの遺族の戦後の戦いに注目した.