著者
北場 勉
出版者
一般社団法人日本社会福祉学会
雑誌
社会福祉学 (ISSN:09110232)
巻号頁・発行日
vol.53, no.4, pp.3-15, 2013-02-28

市制町村制と窮民救助法案との関係は,ドイツ人モッセに始まる.当時の内務卿山縣有朋がドイツ式地方制度の導入を決断した.彼は,モッセをドイツから招聘して起草させ,1888(明治21)年に市制町村制が制定された.その後,モッセは,母国ドイツの救貧法に倣い,日本でも救貧を市町村の公共事務とする救貧法の制定を要請した.なお,ドイツ式地方制度の導入の背景には,不平等条約改正の条件として,西洋流の法律の制定が求められたことがある.同法案の作成に関わったのは,カール・ルードルフ,アルバート・モッセ,荒井邦蔵参事官を中心とする内務官僚,そして山縣有朋である可能性が高いと思われる.窮民救助法案は,被災厄者の救済,市町村の救済義務規定,扶助籍の創設,救済費用に関する争いの調停方法等にドイツ救貧法の影響が色濃くみられるが,日本の従来の救済制度に関わる独自規定も織り込まれていた.
著者
北場 勉
出版者
日本社会事業大学
雑誌
日本社会事業大学研究紀要 (ISSN:0916765X)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.3-37, 2009-02

方面委員とは、大阪府が、1918(大正7)年の米騒動を契機に、同年10月に、創設したものである。方面委員は、行政機関から委嘱を受け、地域の社会調査、医療保護、職業紹介、乳児の保護などを行った。東京では、1918年に救済委員、1920年に方面委員が創設された。 東京へは、継続して人口が流入したが、日露戦争後、及び、第一次世界大戦後に人口流入が激化した。人口流入により、都市問題が発生し、中心部の人口が停滞し、周辺地域の人口が増加した。一方で、従来の社会的絆は崩壊の危機を迎えていた。 大都市は自治権が弱く、財政力もなかったため、住民自ら問題を解決しなければならなかった。こうして、大正期に地域の住民で組織する「町内会」が激増する。行政も町内会の設立を望んだ。この町内会との密接な関連の下に、方面委員制度が生まれてくる。方面委員の職業は自営業で、明治期に来住した者が多く、地付きの名望家ではない。 大正期には、都市での人口定着が顕著になり、中心部から周辺部への人口移動がみられた。Homeniin System was founded, after the rice riot, by the government of Osaka prefecture on Octorber 7th, 1918. Homeniin had been appointed by the government, and had conducted regional social servey, offered health protection, introduced a job and afforded protection to infant. In Tokyo, Kyusaiiin System was founded in 1918, and Homeniin System was founded in 1920. Population flow to Tokyo was always continuing. After Japanese-Russo War and World War Ⅰ, population flow had gathered volume. Population flow had caused urban problem. Population of central portion had grown stagnant, and population of neighboring part had experienced an increase. On the other hand, traditional social ties had been disrupted. Because of weak autonomy and financial difficulties of big city, inhabitant had to resolve urban problem by their own abilities. Thus "Neighborhood Association" organized by inhabitants of the district had drastically increased in the Taisho era. The government had also hoped to organize "Neighborhood Association". With close relationship of "Neighborhood Association", Homeniin system had been born. Occupation of the person who had been appointed to Homeniin was mainly self-owned business. And he/she was incomer in the Meiji era, not the native of high standing. In the Taisho era, incomer had eminently come to stay in Tokyo. Demographic shift from central portion to neighboring part had been observed. Homeniin had gave aid to the poor who had got left behind of this demographic shift.
著者
北場 勉
出版者
日本社会事業大学
雑誌
日本社会事業大学研究紀要 (ISSN:0916765X)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.5-29, 2012-03

本論文の目的は、1874年に制定された恤救規則の意義を検証することである。先行研究により成立過程は一応明らかにされているが、同規則それ自体の意義については様々な見解が存在している。本論文の特徴は、次のとおりである。一つ目は、資料として、主に、明治政府の行政書類であり、救済関連の行政文書が含まれている太政類典を用いたことである。二つ目は、明治初期を日本の国民国家の形成期の一部とみなしたことである。三つ目は、救済関連行政文書と何度も改組された救済担当行政機関との対応関係を分析したことである。その結果、恤救規則は、各地域を国家に統一する国民国家形成の過程において、政府による救済策のうち、個人救済に関する全国的規則として成立したものであることが明らかになった。
著者
北場 勉
出版者
日本社会事業大学
雑誌
日本社会事業大学研究紀要 = Study report of Japan College of Social Work (ISSN:0916765X)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.5-29, 2012-03

本論文の目的は、1874年に制定された恤救規則の意義を検証することである。先行研究により成立過程は一応明らかにされているが、同規則それ自体の意義については様々な見解が存在している。本論文の特徴は、次のとおりである。一つ目は、資料として、主に、明治政府の行政書類であり、救済関連の行政文書が含まれている太政類典を用いたことである。二つ目は、明治初期を日本の国民国家の形成期の一部とみなしたことである。三つ目は、救済関連行政文書と何度も改組された救済担当行政機関との対応関係を分析したことである。その結果、恤救規則は、各地域を国家に統一する国民国家形成の過程において、政府による救済策のうち、個人救済に関する全国的規則として成立したものであることが明らかになった。