著者
大島 田人 八角 真
出版者
明治大学教養論集刊行会
雑誌
明治大学教養論集 (ISSN:03896005)
巻号頁・発行日
no.108, pp.p98-173, 1977

大正四年一月の「中央公論」に発表された鷗外の「山椒大夫」は、「歴史其儘と歴史離れ」(大4・1「心の花」)に紹介されている伝説の梗概から推して、寛文版の古浄璃瑠説経節「さんせう太夫」の流布本あたりを一応の下敷にしたものと思われる。地理的にも岩代-直江津・高田-丹後由良-佐渡、更には遠く津軽のイタコの語る「お岩木様一代記」、また大阪の天王寺、或は京都東山の清水寺、東京では杉並区方南町の「東運寺」(通称「釜寺」)と、広域に亘って分布され、刊本も四十指に余り、絵本に至っては三百四十種を数えるという、口碑伝説の常として、様々なかたちをとって継承されて来たこの長者物語が説教節に載せられる以前、つまり平安期の、いつ頃、何処で、元々何を拠り所として、どんな話として発生したものやら、民俗学の分野からも既に彼此考証されていながら、未だに結論は出ていない。
著者
大島 田人 八角 真
出版者
明治大学教養論集刊行会
雑誌
明治大学教養論集 (ISSN:03896005)
巻号頁・発行日
no.191, pp.p93-219, 1986

この"土山と森鷗外"の稿を執筆中の昭和六十年九月現在、「ある小倉日記伝」「鷗外の婢」の作者松本清張氏は、「文芸春秋」誌上に五月から〈二医官伝〉の題で、旧作と同じ小説の形式をもって鷗外論を連載中である。冒頭書出しの部分は土山行の条りで、筆者がこれから綴ろうとしている通り、松本氏も鷗外の土山常明寺墓参について鷗外日記を紹介しながら、その現状を描出している。もっとも新しい土山常明寺検分の記であろう。明治三三年三月一日、小倉第十二師団軍医部長であった森鷗外は、定例の軍医部長会議に出席のため、小倉を発して、三二年六月の着任以来、初めて上京の途についた。三月一日。雨。倉知薬剤官と偕に小倉を発す。午前七時五十五分汽車に上りて、門市(司)に至る。
著者
大島 田人 八角 真
出版者
明治大学教養論集刊行会
雑誌
明治大学教養論集 (ISSN:03896005)
巻号頁・発行日
no.118, pp.p99-265, 1978

九州太宰府と京畿とを結すぶ、律令体制下の大路が〈山陽道〉であるのは周知の通りであるが、ここでは京阪神つまり神戸以西の国鉄山陽線を辿って鷗外の足跡を訊ねる、というほどの意味である。山陽路で最初に鷗外と関わりのある地は"姫路"である。記録では唯一度のようであるが、明治四十三年一月、軍医総監に就任後二度目の巡閲旅行の際、その帰途に公務を果たすため訪れている。日記には次のようにみえる。一月十三日(木)岡山を発して姫路に至る。宇多川に宿る。一月十四日(金)陰。安東中将貞美の家を訪ふ。松波資之の歌文の額あり。桑木厳翼は中将の女壻なりと云ふ。歩兵第二十九連隊、同第十連隊、騎兵・野砲兵の諸営を視る。一月十五日(土)半晴。懲治隊、監獄・衛戌病院を視る。