著者
八角 真
出版者
明治大学人文科学研究所
雑誌
明治大学人文科学研究所紀要 (ISSN:05433894)
巻号頁・発行日
no.1, pp.1-54, 1962-12

"観潮楼"とは本郷駒込千駄木町21番地にあった鴎外森林太郎邸の称の一つであるが、その由来について鴎外の長男於菟氏は次のように述べている。「観潮楼は、明治二十四年十二月団子坂上(中略)の見晴らしのいい地所を求めて翌年一月末に千住から移転した父が、さらに二六年そこにもとからあった平家の後方の長屋二棟と梅林とを買入れてそこに新築した二階建なのである。「観潮楼の名は団子坂がもと潮見坂と称し、上野の森の向ふに品川沖の海面が見えた所から来たのである。(中略)父の在世時代、白山の吉田屋呉服店に染めさせて出入の者に配った半纏の襟には。観潮閣とあったと覚えてゐるが、父は観潮楼主人と称した。ほかに千朶山房の称もあるのは人の知る如くである。」
著者
大島 田人 八角 真
出版者
明治大学教養論集刊行会
雑誌
明治大学教養論集 (ISSN:03896005)
巻号頁・発行日
no.108, pp.p98-173, 1977

大正四年一月の「中央公論」に発表された鷗外の「山椒大夫」は、「歴史其儘と歴史離れ」(大4・1「心の花」)に紹介されている伝説の梗概から推して、寛文版の古浄璃瑠説経節「さんせう太夫」の流布本あたりを一応の下敷にしたものと思われる。地理的にも岩代-直江津・高田-丹後由良-佐渡、更には遠く津軽のイタコの語る「お岩木様一代記」、また大阪の天王寺、或は京都東山の清水寺、東京では杉並区方南町の「東運寺」(通称「釜寺」)と、広域に亘って分布され、刊本も四十指に余り、絵本に至っては三百四十種を数えるという、口碑伝説の常として、様々なかたちをとって継承されて来たこの長者物語が説教節に載せられる以前、つまり平安期の、いつ頃、何処で、元々何を拠り所として、どんな話として発生したものやら、民俗学の分野からも既に彼此考証されていながら、未だに結論は出ていない。
著者
八角 真
出版者
明治大学教養論集刊行会
雑誌
明治大学教養論集 (ISSN:03896005)
巻号頁・発行日
no.41, pp.50-78, 1968-03

本稿は昭和四二年七月、文京区立鷗外記念本郷図書館において研究発表をした「鷗外をめぐる人々―平野万里について―」と題する内容に大幅の加筆を施したものである。すなわち同発表が平野万里の略伝の紹介にとどまったのに対し、本稿は特に森鷗外と平野万里との交渉に焦点を当てて、その問題点を追究してみようと試みるものである。本論に入る前に、平野万里の人となりを俯瞰する意味で、まず同人の簡単な年譜を紹介しておきたい。平野万里略年譜○明治一八年(一八八五) 五月二五日、埼玉県北足達郡大門村に甚三の次男として生まれた。本名、久保(ひさやす)。 ○明治二三年(一八九〇)六歳 一家上京して本郷森川町三二番地に住み、煙草小売店を営む。本郷区立駒本尋常高等小学校に入学。
著者
大島 田人 八角 真
出版者
明治大学教養論集刊行会
雑誌
明治大学教養論集 (ISSN:03896005)
巻号頁・発行日
no.191, pp.p93-219, 1986

この"土山と森鷗外"の稿を執筆中の昭和六十年九月現在、「ある小倉日記伝」「鷗外の婢」の作者松本清張氏は、「文芸春秋」誌上に五月から〈二医官伝〉の題で、旧作と同じ小説の形式をもって鷗外論を連載中である。冒頭書出しの部分は土山行の条りで、筆者がこれから綴ろうとしている通り、松本氏も鷗外の土山常明寺墓参について鷗外日記を紹介しながら、その現状を描出している。もっとも新しい土山常明寺検分の記であろう。明治三三年三月一日、小倉第十二師団軍医部長であった森鷗外は、定例の軍医部長会議に出席のため、小倉を発して、三二年六月の着任以来、初めて上京の途についた。三月一日。雨。倉知薬剤官と偕に小倉を発す。午前七時五十五分汽車に上りて、門市(司)に至る。
著者
大島 田人 八角 真
出版者
明治大学教養論集刊行会
雑誌
明治大学教養論集 (ISSN:03896005)
巻号頁・発行日
no.118, pp.p99-265, 1978

九州太宰府と京畿とを結すぶ、律令体制下の大路が〈山陽道〉であるのは周知の通りであるが、ここでは京阪神つまり神戸以西の国鉄山陽線を辿って鷗外の足跡を訊ねる、というほどの意味である。山陽路で最初に鷗外と関わりのある地は"姫路"である。記録では唯一度のようであるが、明治四十三年一月、軍医総監に就任後二度目の巡閲旅行の際、その帰途に公務を果たすため訪れている。日記には次のようにみえる。一月十三日(木)岡山を発して姫路に至る。宇多川に宿る。一月十四日(金)陰。安東中将貞美の家を訪ふ。松波資之の歌文の額あり。桑木厳翼は中将の女壻なりと云ふ。歩兵第二十九連隊、同第十連隊、騎兵・野砲兵の諸営を視る。一月十五日(土)半晴。懲治隊、監獄・衛戌病院を視る。
著者
八角 真
出版者
明治大学教養論集刊行会
雑誌
明治大学教養論集 (ISSN:03896005)
巻号頁・発行日
no.33, pp.39-80, 1966-01

東京の青梅街道から環状七号線道路に入って南に羽田方面へ向かって進む。間もなく右手に堀之内の妙法寺があり、さらに和田堀まで来ると左手に立正佼成会のモダンな大聖堂が見え、その先の地下鉄方南町駅を過ぎた辺りの左側のガソリンスタンドの裏手に当たつて、一際大きい銀杏の樹と本堂の大屋根の上に釜を載せてある寺が目を惹く。 この寺は念仏山東運寺というのだが、近辺では"釜寺"の通称でとおっている。堂宇などは今次大戦中罹災によって焼失し、昭和二八年に再建されたものである。山門もその折に寄進されたものだが、縁起によると「これは田村右京大夫の芝田村屋敷浅野内匠頭ゆかりの脇門 "あけずの門" にして内匠頭の冥福を祈り供養の為に奉納したもので江戸初期の武家門として貴重な文化財でもある」という。
著者
八角 真
出版者
明治大学教養論集刊行会
雑誌
明治大学教養論集 (ISSN:03896005)
巻号頁・発行日
no.89, pp.p61-103, 1975-01

一、目次の配列・表記は「詩人」本文によった。一、目次の表記は次の通りである。1[頁]標語(内容)作者名・訳者名 2 標題の下の()内は包含作品名を、標題の下の― ―内は副題を、標題もしくは(作品名)の下の= =内は原作、原作者名を、また作者名の下の数字は作品数をそれぞれ示す。 3 (内容)は「詩人」目次に分類表示がないので、編者が適当に補った。(内容)が特に明らかなものについては、表示を省略した。
著者
八角 真
出版者
明治大学人文科学研究所
雑誌
明治大学人文科学研究所紀要 (ISSN:0389598X)
巻号頁・発行日
no.12, pp.75-129, 1959-02

明治二十九年三月、本郷区立駒本尋常高等小学校高等科二年を修業した平野万里は、四月郁文館中学校に進学した。郁文館中学校は明治二十二年十月、棚橋一郎の創立にかかるもので、当時錦城、共立、日本の各中学と並んで市内では四大私立学校の一つに数えられていた。明治二十二年十月十九日の南京日日新聞は、郁文館中学の設立およびその教育方針を次のように報じている--〔棚橋一郎の郁文館〕今度文学士棚橋一郎氏の發起にて本郷駒込蓬莱町二十八番地に設立した郁文館は、全く金銭主義を掛け離れ、生徒の多少に拘はらず、専ら人材を養育するの目的を以って嚴重に生徒の徳行を監督し傍ら高等中学其他諸官立学校へ入学せんとするものの為普通高等の教育を授くるよし(以下略)