- 著者
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石井 英也
小口 千明
大濱 徹也
- 出版者
- 筑波大学
- 雑誌
- 基盤研究(C)
- 巻号頁・発行日
- 2000
青森県の下北半島に位置する脇野沢村は、江戸時代に能登半島を中心とする北陸の漁民や商人が、ヒバや鱈を求めてやってきて定住したしたことによって、その建設が促進された村である。そのため、脇野沢に住む住民達は、当初から明治初期頃までは水主を業とするものが多く、いとも軽々と周辺地域での他所稼ぎに従事してきた。その後、明治維新による山林の国有地化などによって、脇野沢住民の生業は鱈漁への傾斜を強めるが、鱈漁の季節性を埋め合わせるように、幕末以降発達しつつあった北海道鰊漁への他所稼ぎが多くなった。脇野沢村では、大正期以降に鱈漁が興隆し、それに北海道鰊場への他所稼ぎを組み合わせる一種の複合経営が成立する。それとともに、他所稼ぎの弊害も見られるようになるが、しかし、昭和戦前期までの他所稼ぎは、むしろ地域経済に利をもたらすものと肯定的にみられる傾向が強かった。第二次世界大戦後、脇野沢の鱈漁や、まもなく北海道の鰊漁も壊滅する。しかし、北海道はその開発が国の緊急課題となり、さまざまな基盤整備が行われるようになる。こうして脇野沢住民は、北海道での土木出稼ぎに従事するようになり、思いがけずに失業保険も手にするようになる。その出稼ぎは、高度経済成長期になると、とくに東京を中心とする関東にも向かい、まさに「出稼ぎの村」が形成される。この頃になると出稼ぎの量も質も、出稼ぎを引き起こすメカニズムも変質し、とくに昭和40年代以降にはさまざまな社会問題が注目されるようになった。その重要な問題の一つが、持続的社会の崩壊、つまり出稼ぎ者や年金生活者の増大に伴う地域そのものの空洞化であった。出稼ぎは、諸問題の発生や出稼ぎ者の高齢化や「出稼ぎは悪」という風潮のなかで、昭和末期以降急速に減少してきたが、村の再建が急がれる。