- 著者
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Jones Willie
- 出版者
- 北海学園大学
- 雑誌
- 北海学園大学人文論集 (ISSN:09199608)
- 巻号頁・発行日
- vol.16, pp.103-127, 2000-07-31
伝統的に「愛」と「個人」という言葉は日本人にはなじみの薄い言葉であり,特に教員と学生の関係を語るときにはあまり考えないことばです。しかし私がお話ししますことはまさにその「愛」と「個人」のことなのです。それはなぜかと言いますと,「愛」と「個人」ということこそが非常に重要な問題であり,そのことを考えることを怠ることは,きわめて基本的なことを見過ごすことになり,また「愛」と「個人」ということこそすべての教員が考えるべき事であると私は信じるからであります。私たちが学生を教育していると言う時,私たちは一体何をしていると言うことなのでしょうか。日本人の子供たち(大人も同様ですが)を語るときよく"units of society"(社会の単位)と言います。私の考え方は単に外国人の視点であると反論される方もおありでしょうが,しかし私はこのことは非常に間違っていると思うのです。人間は社会の利益のために存在するのではなく,社会が人々の利益のためにあるのです。しかしながら,人々が皆コミュニティーの福利のために働こうとするならば,その社会はうまく機能するのです。それゆえに全ての人を同一のクローンのように育てないように教育するというのが学校の仕事ではないでしょうか。個人の才能を伸ばし,それによりその個人が社会において自分の役割を果たすように教育することが学校の仕事ではないでしょうか。しかしそれは私たちが個人として目覚めて利己主義になっていくということを言っているのではありません。仮に私たちが学校で自分が持っているある才能に気がつき,その才能を伸ばすように指導されたとしたら,私たちはこれらの才能を他の全ての人々の利益のために効率良く使うことができるのです。そのためにはこれらの才能を養い,育てなければなりません。子供たちが自分が持っている才能を大切にし,さらに他人の才能を大切に思うようになるには愛という媒介が必要なのです。これは難しいコンセプトであり,危険な感情であります,しかしそれを避けてはいられないのです。恐怖心を掻き立てるようなしつけや過酷なしつけというものは学びたいと思う気持ちを壊し,個人の成長を押さえてしまいます。しかし仮に私たちが自分かおこなっていることが好きであれば,その事をよりよく理解するようになります。それゆえに教員の仕事は学生が自分のやっていることを好きになる手助けをすることなのです。そのための唯一の方法は教員が学生達を好きである・愛しているということを示すことなのです。(例えば,3年B組の坂本先生や金八先生),そして学生の全てを平等に愛することなのです。もしそのことから学生が先生に対する愛を育んでいく(そのようになる傾向がありますが)ようになれば,まさに3人のパートナーの踊りが生まれるわけです:教員と教えた科目と学生の3つのパートナー(ボッティチェリのPrimavera: the dance of the Three Graces)これらの考えをまず愛という問題を語ることから始めます。それはこれが地盤(土)であり,その他の全てのものは愛から育っていかなければならない(愛からしか育っていかない)からであります。そして次に個人という問題に触れます。これらのことを皆さんに考えて頂くために,それぞれの事例となる逸話を交えながらお話しいたします。