著者
宇野 功一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.136, pp.39-113, 2007-03-30

博多祇園山笠は福岡市博多区でおこなわれる伝統的な祭礼で、山笠という作り山を博多で運行させるものである。近世を通じて、この祭礼は永享四(一四三二)年に成立したとされていた。これが近世におけるこの祭礼の唯一の起源伝承であった。ところが明治二四(一八九一)年、博多承天寺の開山である鎌倉時代の禅僧、円爾弁円がこの祭礼を始めたとする起源伝承が創出された。この伝承はその後急速に受容され、また変容されていった。まず〈永享四年祇園山笠成立説〉を検討し、これがかなりの程度史実を反映していることを示した。次に承天寺が祇園山笠と関係をもつに至った理由を次のように推定した。延宝二(一六七四)年に福岡藩を襲った飢謹のさい、承天寺において大量の粥の施与が飢民にたいしてなされ、その謝恩として博多の住民が同寺に山笠を奉納するようになったと。しかしこの史実は江戸後期には忘却されており、理由のわからないまま山笠の奉納が続けられた。そこで明治二四(一八九一)年、円爾が山笠を発明したとする伝承が創出された。さらに、この〈円爾山笠発起説〉がどのように受容・変容されたのかを通時的に記述した。記述において明らかになった事柄のうち、重要な点は以下のとおりである。①伝統的な祭礼にたいして新たに創り出された起源伝承が既存の起源伝承に優越し、祭礼の歴史と祭礼集団の歴史を再構築した。②その時々の「現在の」「実際の」祭礼の様相が起源伝承に次々と投影されて伝承の内容を変容させていき、それによって起源伝承の内容はますます祭礼の現状に近づいていった。その結果、起源伝承を史実とする認識がさらに強まっていった。③起源伝承の文字化にさいしては、先行史料・資料の積極的な読み換えまたは非意図的な誤読が積み重なっている。
著者
宇野 功一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.121, pp.45-104, 2005-03-25

近世博多の祭礼祇園山笠を例に、祭礼費用の増加過程と、その結果として生じた祭礼費用徴収法の変更および祭礼費用負担者層の拡大の諸相について明らかにした。分析対象は行町と片土居町という二つの町である。祇園山笠には二つの当番、山笠当番と能当番があった。本稿ではおもに、より重要でより多額の費用を要する山笠当番について論じた。この当番は数年に一度または十数年に一度だけ各町に巡って来たので、各町はこの間に多額の当番費用を準備することができた。そのためこの祭礼は徐々に豪華になっていった。しかし江戸後期になると当番費用が高騰し、豊かでない町では当番費用の徴収法に工夫を凝らすことになった。分析した二町の例から、当番費用負担者層と当番運営者層が町内の表店に居住する全世帯に拡大していく過程が観察された。とりわけ幕末の片土居町ではこの拡大が極限にまで達していた。つまりこの町では居付地主・地借・店借の別なく町内の表店全世帯に同額の当番費用が割り振られており、当番運営においても原則的には表店の全世帯主が平等に参加していたようである。また、その内容は異なるものの、両町とも町中抱の家屋敷を利用することで当番費用の一部を捻出していた。特異な祭礼運営仕法によって祭礼費用が高くなりすぎた結果、祭礼費用にかんして徴収法の変更と負担者層の拡大がなされ、それに伴い祭礼運営者層も拡大した、という一例を示した。
著者
宇野 功一
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.3, pp.673-699, 2014-12-30 (Released:2017-07-14)

祈りとは、人格的または非人格的な絶対的超越者の存在を前提として、何かに注意を集中することで、自己や他者や世界の存在の様態を自己の内面で変革しようとする行為である。この定義に基づき、グルジェフの祈祷論を検討する。彼は祈る対象として、祈りに専念しやすいからという理由で、神・祈祷者自身・祈祷者に最も近しい生者を措定した。そして祈られた願望を達成するのは非人格的な神や、祈祷者に最も近しい生者ではなく、祈祷文などにたいする祈祷者自身の注意の集中だと考えた。それは自己観察兼自己想起を伴う修行法でもあった。彼はまた、祈祷者が適切なやり方で祈ればその肉体に具わっている磁気という物質が変容すると説いた。彼はさらに、この変容は肉体にたいする魂であるアストラル体の形成を助けると説いた。彼の祈りは言語の使用に重きを置いた、自己の存在の様態の変革を志向するものであった。
著者
宇野 功一
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.3, pp.673-699, 2014

祈りとは、人格的または非人格的な絶対的超越者の存在を前提として、何かに注意を集中することで、自己や他者や世界の存在の様態を自己の内面で変革しようとする行為である。この定義に基づき、グルジェフの祈祷論を検討する。彼は祈る対象として、祈りに専念しやすいからという理由で、神・祈祷者自身・祈祷者に最も近しい生者を措定した。そして祈られた願望を達成するのは非人格的な神や、祈祷者に最も近しい生者ではなく、祈祷文などにたいする祈祷者自身の注意の集中だと考えた。それは自己観察兼自己想起を伴う修行法でもあった。彼はまた、祈祷者が適切なやり方で祈ればその肉体に具わっている磁気という物質が変容すると説いた。彼はさらに、この変容は肉体にたいする魂であるアストラル体の形成を助けると説いた。彼の祈りは言語の使用に重きを置いた、自己の存在の様態の変革を志向するものであった。
著者
宇野 功一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.125, pp.1-46, 2006-03-25

近代の博多において、大祭祇園山笠に参加できた諸町のうち、古溪町という町の社会構造と祇園山笠経営についてその実態を詳細に叙述した。同町にはとりわけ昭和一〇年代の史料が豊富に残っているので、聞き取り調査で得られた情報も交えつつ、とくにこの時期を中心に叙述した。古溪町では道路に面した表店に居住する世帯とそれ以外の場所(裏店または表店内の借間)に居住する準世帯との間に大きな社会的格差があった。町の寄合や町役員の選挙に参加できるのは表店の世帯主だけであった。また、町費・祭礼当番費・衛生費などを負担するのも表店の世帯主だけであった。彼らだけが町の正式な構成員であったとみなせる。日中戦争が長期化するなか、古溪町では昭和一五(一九四〇)年に町内会と隣組が設立された。そのさい、内務省の方針に従い準世帯も両組織に加えられたが、しかし両組織の役員の選挙に準世帯の世帯主は参加できなかった。表店の優越は昭和一八(一九四三)年の祇園山笠において古溪町が山笠当番という役を勤めたときにも明瞭に示された。このときの同町の当番役員は表店の世帯主またはその子弟だけで占められた。さらにこの祭礼で最も名誉があるとされる「台上がり」と呼ばれる役割を勤めたのも、表店の世帯主またはその子弟だけであった。一方、明治末期以降の日本では慢性的な不況が続き、博多においても町々の経済力は低下していき、祇園山笠の実施も困難になっていった。昭和前期(一九二六〜一九四五)になると、博多の町々は福岡市や地元財界から祇園山笠にたいする補助金を交付してもらうようになった。しかし太平洋戦争の激化によって物資と人手に不足が生じ、祇園山笠の実施はさらに困難になった。古溪町が山笠当番を勤めたのはまさにこのような時であった。
著者
宇野 功一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.145, pp.275-315, 2008-11-30

都市祭礼を中核とする経済構造を以下のように定義する。①祭礼の運営主体が祭礼に必要な資金を調達し、②ついでその資金を諸物品・技術・労働力・芸能の確保に支出して祭礼を準備、実施し、③祭礼が始まると、これを見物するために都市外部から来る観光客が手持ちの金銭を諸物品や宿泊場所の確保に支出する。以上の三つの段階ないし種類によってその都市を中心に多額の金銭が流通する。この構造を祭礼観光経済と呼ぶことにする。また、②に関係する商工業を祭礼産業、③に関係する商工業を観光産業と呼ぶことにする。本稿では近世と近代の博多祇園山笠を例にこの構造の具体像と歴史的変遷を分析した。近世においては、この祭礼の運営主体である個々の町が祭礼運営に必要な費用のほとんどを町内各家から集めた。そしてその費用のほとんどを博多内の祭礼産業に支出した。祭礼が始まると、博多外部から来る観光客が観光産業に金銭を支出した。博多は中世以来、各種の手工業が盛んな都市だった。このことが祭礼産業と観光産業の基盤となっていた。祭礼産業は祭礼収益を祭礼後の自家の日常の経営活動に利用したと考えられる。観光産業も観光収益を同様に扱ったと考えられる。一方、祭礼後の盂蘭盆会のさいには周辺農村の農民が博多の住民に大掛かりに物を売っていた。このような形で、博多の内部で、そして博多の内部と外部の間で、一年間に利潤が循環していた。近代の博多では商工業の近代化と大規模化が進まず、小規模な商工業者が引き続き多数を占めていた。そのため資本・生産・利潤の拡大を骨子とする近代資本主義にもとづく経済構造は脆弱だった。明治末期以来の慢性的な不況や都市空間の変容などさまざまな要因により、町々が祭礼費用を調達することは困難になっていった。しかし小規模な商工業者たちにとって祭礼収益や観光収益が年間の自家の収益全体に占める割合は高かった。この理由で、祭礼費用の調達に苦しみつつも、博多祇園山笠はかろうじて近代にも継続された。
著者
宇野 功一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.145, pp.275-315, 2008-11

都市祭礼を中核とする経済構造を以下のように定義する。①祭礼の運営主体が祭礼に必要な資金を調達し、②ついでその資金を諸物品・技術・労働力・芸能の確保に支出して祭礼を準備、実施し、③祭礼が始まると、これを見物するために都市外部から来る観光客が手持ちの金銭を諸物品や宿泊場所の確保に支出する。以上の三つの段階ないし種類によってその都市を中心に多額の金銭が流通する。この構造を祭礼観光経済と呼ぶことにする。また、②に関係する商工業を祭礼産業、③に関係する商工業を観光産業と呼ぶことにする。本稿では近世と近代の博多祇園山笠を例にこの構造の具体像と歴史的変遷を分析した。近世においては、この祭礼の運営主体である個々の町が祭礼運営に必要な費用のほとんどを町内各家から集めた。そしてその費用のほとんどを博多内の祭礼産業に支出した。祭礼が始まると、博多外部から来る観光客が観光産業に金銭を支出した。博多は中世以来、各種の手工業が盛んな都市だった。このことが祭礼産業と観光産業の基盤となっていた。祭礼産業は祭礼収益を祭礼後の自家の日常の経営活動に利用したと考えられる。観光産業も観光収益を同様に扱ったと考えられる。一方、祭礼後の盂蘭盆会のさいには周辺農村の農民が博多の住民に大掛かりに物を売っていた。このような形で、博多の内部で、そして博多の内部と外部の間で、一年間に利潤が循環していた。近代の博多では商工業の近代化と大規模化が進まず、小規模な商工業者が引き続き多数を占めていた。そのため資本・生産・利潤の拡大を骨子とする近代資本主義にもとづく経済構造は脆弱だった。明治末期以来の慢性的な不況や都市空間の変容などさまざまな要因により、町々が祭礼費用を調達することは困難になっていった。しかし小規模な商工業者たちにとって祭礼収益や観光収益が年間の自家の収益全体に占める割合は高かった。この理由で、祭礼費用の調達に苦しみつつも、博多祇園山笠はかろうじて近代にも継続された。I shall define the economic structure centered on urban festivals as follows: (1) The management body of the festival raises funds necessary for the festival; (2) it also prepares for and carries out the festival, using the funds to secure goods/techniques/workforce/entertainment; and (3) once the festival begins, tourists visiting from outside the city to watch the festival pay money for goods and accommodation. A large amount of money circulates around the city thanks to the above three stages/conditions. This is what I describe as a festival and tourism economy. Also, commerce and industry related to step (2) shall be referred to as festival industry, while those related with step (3) are tied in with the tourism industry.In this article, I analyze the complete image of this structure and its historic transition, taking examples from the Hakata Gion Yamakasa some years ago and, by contrast, the present day.Previously, each town that managed a festival would collect the funds necessary for festival management mostly from households in the town. The funds would be spent largely on the festival industry within Hakata. Once the festival began, tourists from outside Hakata would contribute money to the tourism industry. Since the Middle Ages, all kinds of handicraft industries have prospered in Hakata, becoming the basis of the festival and the tourism industries.It appears that the festival industry would spend the earnings from the festival on daily management activities after the festival. On the occasion of Urabon-e (an Obon festival), farmers from neighboring farming villages would sell goods to Hakata residents on a grand scale. In this way, profits were circulated throughout the year between Hakata and its outlying areas.In the modern era, modernization and scaling-up of commerce and industry did not happen in Hakata, and small businesses continued to constitute the majority. For this reason, there was no strong development of an economic structure based on modern capitalism whose essence was the expansion of capital/production/profit. It became increasingly difficult for the towns to raise funds, due to various factors such as the chronic depression from the end of the Meiji era, and the transformation of city spaces. However, for small businesses, profits from festivals and tourism accounted for a high proportion of their total yearly profit. This is how the Hakata Gion Yamakasa managed to continue through to the modern era, in spite of the difficulty of festival fund raising.