著者
小嶋 洋介
出版者
日本メルロ=ポンティ・サークル
雑誌
メルロ=ポンティ研究 (ISSN:18845479)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.3-15, 2014-07-30 (Released:2014-09-22)
参考文献数
20

Dans L’Œil et l’esprit, Merleau-Ponty expose sa philosophie du corps qui deviendra une ontologie de la chair. Une clef de cette recherche est la notion de réversibilité qui signifie le rapport réciproque de notre corps sensible à lui-même en tant qu’être voyant-visible que nous pouvons saisir selon nos expériences du miroir. En fait, dans Le Visible et l’invisible, on trouve la phrase merleau-pontienne : la chair est phénomène de miroir. Dans ce sens, le miroir est considéré comme un indice fondamental de l’ontologie de la chair qui est étudiée en dépassant la pensée dualiste du sujet et de l’objet. Ce qui nous intéresse, dans L’Œil et l’esprit, c’est que Merleau-Ponty propose son ontologie en examinant les questions de la peinture. Il utilise une formule « l’œil rond du miroir » inspirée par la présence récurrente de miroirs dans de nombreusespeintures. Il s’agit justement d’un modèle de réversibilité réalisé dans la peinture. Mais Merleau-Ponty n’approfondit pas le sens même de l’expression « l’œil rond du miroir ». Le thème de ce présent article est d’élucider ce sens en parcourant l’histoire de l’art et de la philosophie. À ce propos, nous remarquons que « l’œil rond du miroir » fait référence au symbole du Jeu divin dansla généalogie du maniérisme, dans sa relation au mysticisme. Dans la philosophie mystique de Jakob Böhme qui comporte une perspective ontologique, ce Jeu est considéré comme le Geist mais la signification de ce mot sera modifiée par Hegel et deviendra l’Esprit humain. Merleau-Ponty re-saisit ce Jeu comme Jeu ontologique c’est-à-dire le Jeu d’apparition des phénomènes par rapport à l’Être. Enfin, Merleau-Ponty essaie, pensons-nous, de réaliser une philosophie du Jeu ontologique en examinant la problématique du miroir.
著者
小嶋 洋介
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.86, pp.227-256, 2017-09-30

「東洋哲学」を思想視座として戦略的に提起し,西洋哲学を中心軸とするのではない,新たな哲学確立の必要を示唆した碩学,井筒俊彦の意思を,本論考は踏襲するものである。井筒は,主著『意識と本質』において,イスラーム哲学の用語を援用しつつ「普遍的本質」(マーヒーヤ)と「個別的本質」(フウィーヤ)の二相を提起している。しかし,この二相の本質を単に並行的に論述することに,井筒の「本質」論の要諦が存するわけではない。両者の差異を認識しつつ,両者の合一を探求する点にそれはある。本論考は,その理論的深化・進展のための試みの一つである。ここでは,インド哲学の主潮流をなすと言える「有」の問題を,ヴェーダーンタ哲学の論理からアプローチすることを課題とする。そのための探究の機軸となるのは,井筒の「マーヤー」に関する論考である。ブラフマンという絶対「有」を「普遍的本質」として立てるヴェーダーンタ哲学において,マーヤーは「幻影」として,究極的には排除されるものと見なされるが,井筒による創造的解釈を通じて,マーヤーの新たな意味を探究し,そこに「自己」の問題が介在していることに,我々は着目する。
著者
小嶋 洋介
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.92, pp.267-296, 2019

井筒俊彦にとって,コトバの問題は,その哲学の中核をなしている。しかしながら,その言語哲学は,通常の意味での「言語学」とは言えない。「存在」問題から切り離されることはなく,いわば言語=存在哲学を形成しているからである。同時に,井筒にとっての「存在」哲学は,「一なるもの」の位相に立つ体験知を要請するものでもある。いわゆる「神秘哲学」の「視座」を懐胎している。故に,言語=存在神秘哲学とでも言えるものを形成しており,一見,特異な言語哲学であるという印象を与えるが,「東洋哲学」の領域においては孤立した思想ではない。種々の類縁・相関する思想を見出すことができ,井筒はそこから東洋哲学における「共時的構造」を紡ぎ出している。そもそも井筒の多くのテクストは,異種の複数テクストを横断的に接合しつつ,その編目に自身の哲学を縫いこんでいくスタイルを取っている。本論考で,我々は空海の言語思想に井筒と相応する哲学を見出している。論の中核は,空海思想の読みを通じて,そこに井筒の言語=存在哲学を現成させる試みにある。もとよりこの一論考で,井筒の言語哲学の全貌を論じ尽くしているわけではない。ささやかな一歩を刻むものにすぎないことを,明記しておく。
著者
小嶋 洋介
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.77, pp.263-291, 2013-10-10

本論稿は、その目的の大前提に、副題に示した「自然の存在学」というテーマがあり、このテーマの展開上に位置づけられている。その中の一主題である絵画をめぐる問題に即して、ファン・ゴッホは取り上げられている。ただ、この論稿は純粋なファン・ゴッホ論として立てられているのではない。軸はハイデガーの思想の方にある。何故ハイデガーなのか。それはハイデガーが、ファン・ゴッホの絵を梃子にして独自の思索へと発展させた重要な一論を出しており、そこで論じられている内容を無視してファン・ゴッホを論究することはできないからである。そこで第一節では、その著名な論文『芸術作品の根源』において、何が論じられているかを解明することに努めている。第二節では、今度はファン・ゴッホの側から見て、ハイデガーの思想との連関性を探る。ここで両者に響きあう主要概念が「大地」と「自然」である。ただ最終節で、我々はこの論題をファン・ゴッホとハイデガーの問題領域の内部に収斂させて終えるわけではない。「大地と自然」の問題の元型性を探求するために、東洋思想との接点を模索する。この論稿をステップに、「自然の存在学」をさらに展開させていくための道を呈示することが、根本的目的となっているからである。