著者
西村 秀樹 清原 泰治 岡田 守方
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1998

昭和初期においては、力石には労働様式と関連した「通過儀礼」的な意味はすでにうすれてしまっていたようである。概しては、祭りのとき、相撲大会のとき、お宮の掃除のときなど若い衆が集まった際に、「力比べ」「力試し」「力自慢」の「遊び」としておこなわれていたと言える。すなわち、「伝統的身体」は、かつてのように農耕という労働様式と有機的に関連するものではなくなっており、「遊び」「レクリェーション」のなかでその威力を発揮するものになってしまっていた。こうした変容は、明治政府のスローガン「富国強兵」「殖産興業」を推進していくために講じた「身体の近代化」政策-学校体育の普及・運動会の普及-によると同時に、それと並行して生じた農業技術の向上、科学肥料の供給、生産の集約化等による「伝統的身体」の変質あるいは意義喪失といった社会過程にも負うている。こうして、昭和初期には、身体は近代化されていた。一方で力石を担いで遊んでいたが、他方では町や部落、学校の運動会が盛んで、「躍動」「すばやいロコモーション」「方向転換」「整列行進」になじんでいたのである。戦後は、力石はこの「レクリェーション」からも姿を消し、現在では香北町や香我美町で年一回のコンテストとして残存するにすぎない。これは、村落構造の崩壊(例えば、力石の担い手である若い衆が減り、若者宿が消失していったこと)や他のレクリェーション(野球・相撲・芝居・浄瑠璃など)の普及といった社会過程を背景にしていると考えられる。今回の聞き取り調査は、今や風化してしまいそうな力石の実態を記録にとどめることができたというところに、最大の成果があったと思っている。
著者
西村 秀樹 清原 泰治 岡田 守方
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2000

戦前から嶺北地域でおこなわれてきた相撲大会の運営資金は、地区の総代が集めた寄付金による。当日に向けての練習指導も、土俵づくり、桟敷づくりもすべて地区総ぐるみでなされる。戦前も現在も、行政の側とは無関係に、地区の熱意によって脈々と続けられる"フォーク・ゲーム"なのである。社会体育とかコミュニティ・スポーツの原点として見直すべき姿であろう。強い力士には、ひいき連中すなわち地縁・血縁を媒介とした後援会によって「しこ名」がつけられ、また「化粧まわし」が贈られた。ひいき連中は熱烈な応援を繰り広げ、喧嘩沙汰になることもたびたびあった。ここには、各集落の「ローカリズム」といったものがうかがえる。しかし、そうした緊張を緩和させる集落間の対外的調和機能をも宮相撲は有していた。「勧進元預り」といった勝負を引き分けにする裁定があったこと、大会には出店が並び、各集落の特産物が集められ、集落間の交流がなされたこと、集落を越えての男女交際・婚姻の契機となったことなどは、そうした意味をもっている。宮相撲は、こうして地域的共同性の再生産をもたらしていたと考えられる。相撲という力くらべの大会を通して老若男女が共通の時空間へ参加した。人々は、そうした共通の体験を通じて、日常生活における利害を超越した共同性の感情を確認していったのである。その共同性は、各集落を核としながらも、他集落を含んだより広域のものへとなっていったと考えられる。地域社会はこうして編成されていくのである。