著者
寳學 淳郎 清原 泰治 阿部 生雄
出版者
高知学園短期大学
雑誌
高知学園短期大学紀要 (ISSN:03894088)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.9-22, 1998-03-31

This study investigated the emergent process of the extra-curricular sport activities before the organization of the Koyu-kai(Students' body), and the activities of Undo-bu(sport club) that belonged to the Koyu-kai of the Tokyo Higher Normal School(THNS). This study investigated mainly Meiji Era. In THNS after the organization of Yoriai-kai (1880) and the Undo-kai (a meet for athletic sports, that was established in 1886), the Koyu-kai governing extra-curricular activities was set up in October 1901. The earliest extra-curricular sport activities in THNS were only tennis and rowing. The Undo-kai organizad had seven Undo-bu(sport club) - judo, kendo, kyudo, apparatus gymnastics and sumo, tennis, association football, and baseball. As the oraganization of Koyu-kai the Undo-bu increased in number. There were ten clubs - judo, kendo, kyudo, apparatus gymnasitics, tennis, association football, baseball, rowing, bicycle, and sumo. In 1902,two clubs (swimming and track-and-field) were established in the Koyu-kai and next year three clubs (sumo, bicycle, apparatus gymnastics) were excluded from the Koyu-kai. The feature of the Undo-bu of the Koyu-kai in THNS in the Meiji Era were as follows. 1)There were two types : one was "compulsory" Iike swimming, and the other was "free will" . 2)Foreign sports like tennis were introduced at the very early stage in Japan. 3)The Undo-bu of the Koyu-kai contributed to the introduction and popularization of sports by publishing the books (association football) and sponsoring the meeting(tennis, track-and-field, swimming etc.). 4)The performance were at high level and Shizo Kanaguri (track-and-field) took part in the 5th Olympic Games(1912).
著者
清原 泰治
出版者
高知学園短期大学
雑誌
高知学園短期大学紀要 (ISSN:03894088)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.713-722, 1992-11-30
著者
西村 秀樹 清原 泰治 岡田 守方
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1998

昭和初期においては、力石には労働様式と関連した「通過儀礼」的な意味はすでにうすれてしまっていたようである。概しては、祭りのとき、相撲大会のとき、お宮の掃除のときなど若い衆が集まった際に、「力比べ」「力試し」「力自慢」の「遊び」としておこなわれていたと言える。すなわち、「伝統的身体」は、かつてのように農耕という労働様式と有機的に関連するものではなくなっており、「遊び」「レクリェーション」のなかでその威力を発揮するものになってしまっていた。こうした変容は、明治政府のスローガン「富国強兵」「殖産興業」を推進していくために講じた「身体の近代化」政策-学校体育の普及・運動会の普及-によると同時に、それと並行して生じた農業技術の向上、科学肥料の供給、生産の集約化等による「伝統的身体」の変質あるいは意義喪失といった社会過程にも負うている。こうして、昭和初期には、身体は近代化されていた。一方で力石を担いで遊んでいたが、他方では町や部落、学校の運動会が盛んで、「躍動」「すばやいロコモーション」「方向転換」「整列行進」になじんでいたのである。戦後は、力石はこの「レクリェーション」からも姿を消し、現在では香北町や香我美町で年一回のコンテストとして残存するにすぎない。これは、村落構造の崩壊(例えば、力石の担い手である若い衆が減り、若者宿が消失していったこと)や他のレクリェーション(野球・相撲・芝居・浄瑠璃など)の普及といった社会過程を背景にしていると考えられる。今回の聞き取り調査は、今や風化してしまいそうな力石の実態を記録にとどめることができたというところに、最大の成果があったと思っている。
著者
寳學 淳郎 清原 泰治 阿部 生雄
出版者
高知学園短期大学
雑誌
高知学園短期大学紀要 (ISSN:03894088)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.23-32, 1998-03-31

The present paper aims at investigating the extra-curricular sports activities in Tokyo Higher Normal School(THNS) from Taisho Era to the end of World War II . The followings results were obtained. 1)In this period, the Undo-bu(sports club) in the THNS increased in number. Behind this phenomenon, there exsisted the rapid popularization of sports in Japan and the increase of the students of THNS. 2)There were many good players in track-and-field, swimming, association foot-ball, rowing, handball in the THNS who represented Japan in the Olympic Games and/or Far Eastern Championship Games. It means that the extra-curricular sport activities in THNS contributed a lot to the improvement on the level of Japanese sports. 3)The Undo-bu of judo, kendo and association football sponsored the National Middle Schools Championships and contributed to the development of local sports. 4)THNS graduates played an important part in the popularization and the development of the local sports.
著者
清原 泰治
出版者
高知県立大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2012-04-01

1950年代、「昭和の大合併」後、地域住民の融和を図ることを目的に、市町村民運動会が開始された。県行政は、運動会で実施する種目を提案したり、自治体に配置した体育指導委員に運営を担わせるなど、市町村民運動会の開催を推進した。初期の段階では、地区対抗方式による運営方法のために、住民間の対抗意識が助長され、トラブルが問題となる。主催者は、トラブルを防ぐために、娯楽性の強い種目を取り入れたり、採点方法を工夫するなどして、円滑な実施を図った。このような運営上の工夫もあって、この時期に市町村民運動会は地域に定着する。
著者
清原 泰治 西村 秀樹 米谷 正造 五百蔵 高浩
出版者
高知県立大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2009

本研究は、伝統的な地域スポーツ・イベントがまちづくりに果たした役割を考察した。「昭和の大合併」を経て、地域住民の「融和」が行政課題となった高知県内の各自治体において1950年代に行政主導で始まった市町村民運動会は、新たなまちづくりを担うことを期待されるスポーツ・イベントであった。一方、地域の伝統的な相撲大会は、住民によって主体的に運営され、地域社会を維持していくためのつながりを強化・継承する機能を持っていた。
著者
西村 秀樹 米谷 正造 清原 泰治 大隈 節子
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2006

グリーン・ツーリズムでは、地域の自然・文化・生業を地元の人たちから直接学ぶ「体験学習」が目玉になっており、その体験できないことを自分の身体で体験するということは、これまでの学校教育の枠にはとどまらない新しいかたちの「知」を自主的に獲得していくことにつながり、自立していく能力を養っていくことになる。これは、まさに「総合学習」の趣旨にかなっているが、その身体で体験する「総合学習」はどのような知の形態を特徴とするのだろうか。本研究では、高知県四万十川中流域(四万十市一帯)を調査フィールドとしてとりあげ、自然と生活・生業および文化との多様なつながりを学習できる「体験学習」を分析する。それによって、身体的行為を媒介させた生活体験を基点にして意味の連関が果てしなくつなげられていくという体系化された「知」を掘り起こすこと、およびそうした身体を基点に広げられた意味連関から生まれる臨機応変な対処能力・問題解決能力こそが「生きる力」であることを明らかにしていった。そうした「知」は、具体的には中山間地域が現在置かれている状況や都市部にはない「豊かさ」を支えている自然環境に関するものであり、それを体験的に理解することによって自らのライフスタイルを見直し、また社会と自分との関わりを考えていけるような可能性を内包する知なのである。
著者
西村 秀樹 清原 泰治 岡田 守方
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2000

戦前から嶺北地域でおこなわれてきた相撲大会の運営資金は、地区の総代が集めた寄付金による。当日に向けての練習指導も、土俵づくり、桟敷づくりもすべて地区総ぐるみでなされる。戦前も現在も、行政の側とは無関係に、地区の熱意によって脈々と続けられる"フォーク・ゲーム"なのである。社会体育とかコミュニティ・スポーツの原点として見直すべき姿であろう。強い力士には、ひいき連中すなわち地縁・血縁を媒介とした後援会によって「しこ名」がつけられ、また「化粧まわし」が贈られた。ひいき連中は熱烈な応援を繰り広げ、喧嘩沙汰になることもたびたびあった。ここには、各集落の「ローカリズム」といったものがうかがえる。しかし、そうした緊張を緩和させる集落間の対外的調和機能をも宮相撲は有していた。「勧進元預り」といった勝負を引き分けにする裁定があったこと、大会には出店が並び、各集落の特産物が集められ、集落間の交流がなされたこと、集落を越えての男女交際・婚姻の契機となったことなどは、そうした意味をもっている。宮相撲は、こうして地域的共同性の再生産をもたらしていたと考えられる。相撲という力くらべの大会を通して老若男女が共通の時空間へ参加した。人々は、そうした共通の体験を通じて、日常生活における利害を超越した共同性の感情を確認していったのである。その共同性は、各集落を核としながらも、他集落を含んだより広域のものへとなっていったと考えられる。地域社会はこうして編成されていくのである。