著者
田中 英道 森 雅彦 松本 宣郎 吉田 忠 鈴木 善三 岩田 靖夫 池田 亨 芳野 明
出版者
東北大学
雑誌
一般研究(B)
巻号頁・発行日
1990

宇宙の体系、天体の考察は当然歴史的な変遷の中で、人間の外界に対する思想行為として、深く芸術に影響を与えてきた。芸術そのものが近代のように、科学、哲学と分離している時代と異なり、一体化した時代にあっては、宇宙観、天体観がそこに表現されざるを得ない。例えばカトリックの総本山であるヴァチカン宮の、ミケランジェロによるシスティナ礼拝堂天井画には『旧約聖書』の「天地創造」の場面が描かれているが、これは基本的には「ユダヤの宇宙論」に基づいている。第一に指摘すべきことは聖書の記録が「宇宙」という観念を知っていたかどうかであるが、世界は有機的統一体ではなくて別の現象の集まりに過ぎず、それらの共通の創造主の意のままに制御されている。つまり聖書の世界にはユニヴァースやコスモスという言葉はない。理論的にはそのような形で芸術に表現されることになる。ミケランジェロの場合、神が闇と光を創造し、月と太陽をつくり、人間を生じさせた場面を描いたとき、そこには宇宙論的な統一体はないことになる。確かに創造された人間の姿は、決して、最初から宇宙の中で調和のとれた存在として描かれているものではない。しかし『創世記』(1-31)で天地創造の話の終わりに「はなはだ善かりき」という使い方があって、宇宙の優位性を語っている。聖書の世界像ははっきり地球中心的であるが、ギリシアの天体観は様々な形をとったが、太陽中心説でさえ存在した。これらの知識が総合されて芸術に含まれている。このような宇宙観、天体観がまずどのようなものであったかを根本的に検討することが、我々の研究課題であった。単に西洋のキリスト教的観念だけでなく、ユダヤの宇宙論、ギリシャの天体観などを多角的に検討し、またイスラム、インドさらには中国などの宇宙観と比較し、それぞれがどのような共通性と相違があるか、研究成果の中で取り入れることが出来た。様々な分野の分担者がそれをまとめる作業を行った。
著者
岩田 靖夫
出版者
東京大学
巻号頁・発行日
1987

博士論文
著者
岩田 靖夫
出版者
創文社
雑誌
創文 (ISSN:13436147)
巻号頁・発行日
no.11, pp.1-3, 2013
著者
田中 英道 松尾 大 野家 啓一 吉田 忠 鈴木 善三 岩田 靖夫
出版者
東北大学
雑誌
一般研究(B)
巻号頁・発行日
1993

芸術の問題を狭い範囲でとりあつかわれるのを避け、広義な意味での「形象」という概念でとりあげ、そこで他のジヤンルの表現形態との関連をさぐってきた。Formという言葉は哲学、生理学、言語学などでも使われるが、19世紀末から精神科学の領域にも適用されている。それはデイルタイの形象学的解釈学であり、それは世界観に諸々の類型があり、その形成の合法則性を認識しなければならないとするものである。またゲシユタルト心理学においては、目に直接与えられた形象がそれ以上還応できない事実であるとする。さらにフッサールの現象学は、彼が「根本現象」と呼ぶ本質的な現象を把握を目指すものであった。カッシラ-の「象徴形式の哲学」では、カント的な「慣性」や「感性」と区別しその新たなる総合を目指したのであった。又「構造主義」においても、構造を形象学的にとらえている。この流れはプラトンのイデア論のようにまず「神」とか「イデア」といった背景の観念から発し、それが「形相」としてアリストテレスが述べるような4つの因果性(質料、形相、運動、目的)からなるものとする。伝統的な概念と対立するものである。あるいは近代的なプラトン批判の系列に属する。イデアだけが本来実在するものであるとするのに対し、形象だけが本来実在し、そこから観念、が生まれる、というものである。われわれの研究成果はこのように西洋のプラトンから発する観念的な立場と反対の、物象そのものを「形象」としてとらえる立場の中から、さらに実践的に芸術作品そものの分析を通してその実相を明らかにするものである。研究代表者は美術作品を通して、そこから解釈できるさまざまな思想-イデアを抽出した。とくにミケランジエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの芸術作品はまさに「形象学」の対象として深い考察を行なった。又各分担者はそれぞれの分野から以上の方法論的な意識をもって考察を行なっている。
著者
岩田 靖夫
出版者
日本西洋古典学会
雑誌
西洋古典學研究 (ISSN:04479114)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.15-28, 1979-03-29

"What is Place?" To this question Aristotle proposes four possible answers: form (ειδο&b.sigmav;) , matter (υλη) , the empty interval (διαστημα) between the extremities of the containing body and the limit of the containing body (περα&b.sigmav; του περιεχοντο&b.sigmav;), and examines these possibilities one by one. First, both place and form contain things so that we could say they are similar in this respect. But, while form is the boundary of the contained body and not separable from it, place is the boundary of the containing body and separable from the contained one. So we must say place is not form. Second, both place and matter receive qualities or other limitations, and in this respect they somehow seem to resemble each other. But, while matter is neither separable from the thing nor contains it, place is separable from it and contains it. So, also in this case, we must say matter is not place. The third possible answer, that is, the empty interval seems to be most appropriate as the explanation of place. But Aristotle denies even this answer. His main argument is as follows. If there were an interval which existed by itself(καθ' αυτο ειναι) , it would be a hypostatized κενον, which would further demand its own place to be in, so that there would be a place of place ad infinitum. (This argument of Aristotle seems in my opinion not to be so successful. But even if it fails, it reveals, by his strong denial of the existence of κενον, his conception of κοσμο&b.sigmav; which matters to us. Thus the only remaining answer is the fourth, that is, "the first unmoved limit of the containing body(πρωτον ακινητον περα&b.sigmav; του περιεχοντο&b.sigmav;)" which is indeed to be the final definition of place by Aristotle. This definition has two important characteristics. One point : Place as Aristotle understands it, is not an independent reality but the relation of a containing body to a contained one. In other words, place is an attribute of bodies. Another point: Although place as above said is the relation between bodies, it does not necessarily mean that place is a relative phenomenon. Rather, he says, the containing body realizing the role of place must be unmoved. From this it follows that place as a relation must be based on an absolute measure. This measure is just the everlastingly revolving circumference of the universe (κοινο&b.sigmav; τοπο&b.sigmav;)and the four ringed layers of the elements fire, air, water, earth-(οικειο&b.sigmav; τοπο&b.sigmav;)whose unalterable absolute arrangement in the incessant change into one another imitates the constant movement of the heaven. This fact that the elements have a natural tendency to move towards their own(respectively different)places is the very reason why he denied so strongly the existence of the void which implies the negation of all differentiation. Conclusion: the universe which is reflected in his theory of place is a finite(πεπερασμενον) and complete (τελειον) universe which is so densely filled (πληρε&b.sigmav;) by bodies that it has no empty interstices at all. Actually there exists no infinite thing. In ontology he was essentially the most genuine successor to Parmenidean theory of being.