- 著者
-
川合 安
- 出版者
- 北海道大学
- 雑誌
- 奨励研究(A)
- 巻号頁・発行日
- 1993
六朝時代における官制改革論の中で一貫して提起され続けた重要な論点の一つが、地方分権の推進であることが明らかになった。地方分権の主張は、曹操政権の時代(三世紀初頭)、「封建論」として提起される。中央集権的な郡県制を採用した秦漢古代帝国が滅亡の危機に瀕していたこの時期、理想的な周代封建制回帰の志向が強まったのである。「封建論」を最初に提起した荀悦は、封建諸侯の政治は王と領民と双方の規制を受け、王の政治も諸侯の規制を受けて、極端な悪政の出現が防止される点をメリットとして強調する。当時の論者の中には、封建の立場をとらず、郡県制の枠内で地方長官に領兵権を与えることを主張する者もあった(司馬朗)が、権力の分散という方向性においては「封建論」と軌を一にしていたといえよう。三国・魏の後半には、司馬氏の台頭に対する危機感から、皇室曹氏擁護のための皇族封建が強く主張される(曹問等)。司馬氏による西晋王朝創業の際にも、魏滅亡の教訓から皇族封建が主張された(段灼)。これら皇族封建論にも分権という論点が欠落していたわけではないが、皇族重用の方に力点があった。西晋の皇族「封建」政策は、皇族重用ではあっても、地方分権ではなく、実質的には郡県制であった。この点に対する批判は、劉頌や陸機によって展開され、封建制採用による地方政治の活性化が唱えられた。が、四世紀初頭、西晋の皇族「封建」が無惨な失敗に終わると、封建の魅力は大きく後退し、四世紀後半の袁宏を最後に、「封建論」はみられなくなる。かわって登場してくるのが、郡県制の枠内で地方長官の任期を長期化する等の措置を講じて、地方分権を実現しようとする主張である。その嚆矢は、四世紀初頭の丁潭であり、六世紀初頭の南朝・梁の官制改革を主導した沈約の地方分権論へとつながっていくのである。