著者
川合 英夫
出版者
日本海洋学会
雑誌
海の研究 (ISSN:09168362)
巻号頁・発行日
vol.10, no.4, pp.333-339, 2001-07-05

「朝鮮」を「解」と略した「東鮮暖流」「北鮮寒流」という海流名は, 民族差別と闘う連絡協議会によって1991年に「日本の植民地時代以来の差別的な表現」だと見なされ, 文部省 (1992)『学術用語集』から削除された。本報では約30編の文献を精査して「東鮮暖流」「北鮮寒流」は宇田 (1934) に,「西鮮海流」は野満 (1931) に,「北鮮暖流」は日高 (1943) に, 初記載があったことを突き止め, これら海流名の扱い方を考える。平 (2000) が提案した「東朝鮮暖流」「北朝鮮寒流」を取りあえず代替語とする。ただ「東朝鮮暖流」は今後よく使われそうなのに, 口頭では多音節で冗長だから,「東の鮮やかな暖流」の意味を併せもつ「東鮮暖流」という海流名が22世紀またはそれ以降, 朝鮮民族のご了承を得て復活することを希望する。野満 (1931, 1942a, b) が本文では「西朝鮮海流」を, 海流図では「西鮮海流」を用いていた事実は, 海流略称はもともと図面空間節約のため生じたもので, 差別意識とは無関係であった証しである。
著者
川合 英夫
出版者
日本海洋学会
雑誌
海の研究 (ISSN:09168362)
巻号頁・発行日
vol.10, no.4, pp.341-349, 2001-07-05
参考文献数
42
被引用文献数
2

近年, 朝鮮半島の国々は国連地名標準化会議などの席上で,「日本海」の名は旧日本による植民地政策の遺産だという理由で, その改称を要求している。この問題に関連して調べた結果を報告する。まず, 日本海を含む総計11の縁海の命名法を分類し,「日本海」という名が, この海が縁海として存立するために不可欠な, 母大洋たる太平洋から縁海の日本海を隔離している主要列島弧の名に因んでいて地理学的にも妥当なことを指摘する。次に, 調べた日本語事典7編はすべてKrusensternをもって「日本海」の名の初記載者と誤認していた背景に触れる。最後に, 西洋製, 日本製いずれの地図でも「日本海」の名が1800年頃から慣用され, 明治維新頃に定着するに至った経過を, 地図一覧・地図資料 (青山, 1997) と古海流図 (1837〜1887) を併用し, 1/3世紀別の地図出現回数の変遷により確認する。日本による半島の植民地支配の罪過は重く大きいが,「日本海」の名の地図における慣用・定着はこれとは無関係のことである。
著者
川合 英夫
出版者
日本海洋学会
雑誌
海の研究 (ISSN:09168362)
巻号頁・発行日
vol.10, no.4, pp.333-339, 2001-07-05 (Released:2008-04-14)
参考文献数
42

「朝鮮」を「解」と略した「東鮮暖流」「北鮮寒流」という海流名は, 民族差別と闘う連絡協議会によって1991年に「日本の植民地時代以来の差別的な表現」だと見なされ, 文部省 (1992)『学術用語集』から削除された。本報では約30編の文献を精査して「東鮮暖流」「北鮮寒流」は宇田 (1934) に,「西鮮海流」は野満 (1931) に,「北鮮暖流」は日高 (1943) に, 初記載があったことを突き止め, これら海流名の扱い方を考える。平 (2000) が提案した「東朝鮮暖流」「北朝鮮寒流」を取りあえず代替語とする。ただ「東朝鮮暖流」は今後よく使われそうなのに, 口頭では多音節で冗長だから,「東の鮮やかな暖流」の意味を併せもつ「東鮮暖流」という海流名が22世紀またはそれ以降, 朝鮮民族のご了承を得て復活することを希望する。野満 (1931, 1942a, b) が本文では「西朝鮮海流」を, 海流図では「西鮮海流」を用いていた事実は, 海流略称はもともと図面空間節約のため生じたもので, 差別意識とは無関係であった証しである。
著者
川合 英夫
出版者
日本海洋学会
雑誌
海の研究 (ISSN:09168362)
巻号頁・発行日
vol.3, no.3, pp.181-203, 1994-06-30 (Released:2008-04-14)
参考文献数
102
被引用文献数
1

After the national isolation policy was established in 1639, the building of large ships and ocean navigation were prohibited in Japan. Thus, it is difficult to find old books describing the Kuroshio. By searching and deciphering early books, however, I have found some historical descriptions and illustrations about the Kuroshio. By examining these records, coupled with records in the Western books, I have reached the following conclusion. The term "Kuroshio" originated from a local word "Kurose River", used within inhabitants of the Izu Islands, which indicated a branch of the actual Kuroshio flowing over the Izu Ridge. About 1800 it became meaning the Kuroshio south of the Tokaido District, and became popular among Japanese people by the fashion of publishing maps, local geography, accounts of trips and novels. However, a view of fragmental currents at that period might interrupted the recognition of the Kuroshio as a long current. From the end of the 18th century to the mid 19th, the Western collected information about Japan's geography published by the Japanese and made surveys and analyses of the Kuroshio on the occasion of cruises to ask for establishment of commercial relationship with Japan. Before the Meiji Restoration (1868), the term "Kuroshio" had already turned to an international word, which meant the entire Kuroshio, by the international diffusion of information about the Kuroshio. However, the undersanding of the Kuroshio by the Japanese was not practical as shown in Kanrin Maru journals by them.
著者
川合 英夫 Hideo Kawai
出版者
日本海洋学会
雑誌
海の研究 (ISSN:09168362)
巻号頁・発行日
vol.10, no.4, pp.351-359, 2001-07-05
参考文献数
12

江戸時代中期の瀬戸内海では「潮汐界」(シヲサカヒ) は, その両側で上げ潮時の潮流が逆向きとなる潮汐の境界を意味していた (森 幸安, 1754)。内海舟運で行われた潮待などの実際面で「潮汐界」の情報が役立ったため, この語が使われたのだろう。北原 (1912, 1921) は「潮合(線)」を寒暖二流 (実は二水塊) の境界という意味で使っていた。「潮境」を浮遊物の集積する海流収斂線や異色水塊の境界という意味で, 最初に使ったのは宇田 (1931) である。しかし宇田が傾倒してやまない北原が使った「潮合(線)」の代わりに「潮境」を使い始めた動機は謎である。もしかすると, すでに「潮境」が外海漁業者の間で広く使われていたという経緯も考えられる。「潮合(線)」も「潮境」も海軍水路部の重松や岸人らでは使われず, 水産試験機関の北原や宇田らに限って使われたことは,「潮合(線)」「潮境」の情報が水産試験研究の実際面で役立ったためだろう。A term "Shiwo-Sakahi" (潮汐界), used in the Seto Inland Sea, Japan in the middle Edo Period (Mori, 1754), is interpreted to mean a boundary zone, on both sides of which the current direction from the low tide to the high tide becomes opposite. This term must have spread, because such information on tidal currents was useful for the practical aspect, related to the waiting in port until the tidal current shifts to a favorable direction. Kitahara (1912, 1921) used terms "Shio-Ai" (潮合) and "Shio^Ai-Sen" (潮合線) to mean a boundary between warm and cold currents, but actually warm and cold water-masses. While Nagatsuka (1906) used a term "Shio-Me" (潮目, current-rip) to mean a boundary between cold river water and warm seawater in his traditional Japanese poem, Uda (1929a) used this term to mean a line of accumulation of drifting matter accompanied by a thermal front in his scientific report. Uda (1931) also used a term "Shio-Zakai" (潮境) for the first time to mean a line of current convergence or a boundary between two water-masses with different colors. However, the motive for Uda, an ardent admirer of Kitahara, to have started using "Shio-Zakai" instead of "Shio-Ai-Sen" used by Kitahara, is still mysterious. Possibly "Shio-Zakai" might have already spread among fishermen in open seas. The terms "Shio-Ai" and "Shio-Zakai" were not used by Shigematsu and Kishindo of the Hydrographic Office, Japanese navy, but were used by Kitahara and Uda of fisheries experimental organizations. This is probably because these terms were useful for the practical aspect of the fisheries oceanography.
著者
花井 耕造 井原 文子 勝田 昭一 村松 禎久 村上 勉 井原 完有 藤田 智之 川合 英夫 田仲 隆 森山 紀之
出版者
公益社団法人日本放射線技術学会
雑誌
日本放射線技術學會雜誌 (ISSN:03694305)
巻号頁・発行日
vol.50, no.12, pp.1950-1959, 1994-12-01
被引用文献数
10

本研究ではAxial像を中心に, ヘリカルCTにおける再構成間隔と腫瘤性陰影の描出能の関係をコントラスト分解能の違いから述べた.ヘリカルCTでは, 検査目的に応じて最適な再構成間隔を定めることで, 体軸方向に対する情報量をいかに効率良く, かつ最大限に得るかが重要なスキャン条件の選択となる.今後, 3次元画像表示への対応も含めて最適再構成間隔の設定基準を定めて行きたい.