著者
日名 淳裕
出版者
東京大学大学院ドイツ語ドイツ文学研究会
雑誌
詩・言語 (ISSN:09120041)
巻号頁・発行日
vol.79, pp.75-95, 2014-03

1948年の7月5日から8日にかけて、詩人パウル・ツェランはウィーンからパリへの亡命途上にインスブルックに立ち寄った。そこでツェランは、雑誌『ブレンナー』編集長であり、詩人ゲオルク・トラークルの庇護者であったルートヴィヒ・フィッカーを前にして自作の詩を朗読している。それは結果的に、ツェランには淡い失意を残すものとなったのだが、インスブルックでの二人の会談は、第二次大戦後ウィーンにおける芸術家たちの交流のひとつの成果であり、オーストリア戦後文学におけるひとつのエピソードとして広く知られている。それにもかかわらず、ツェランの感じた失望の背景を探る研究はまだ少ない。本稿は先行研究史におけるこの間隙を埋めようとするものである。出来事を証言する数少ない記録であるツェランによる二通の手紙の分析をもとに、フィッカーとツェランが出会った当時の歴史的コンテクストを再確認し、その上で二人の出会い/すれ違いに新たな角度から光を当て直そうとした。フィッカーがツェランの詩を、トラークルにではなく、ユダヤ人詩人ラスカー=シューラーにたとえた問題の発言は、1948年という歴史的コンテクストに深く根差したものとして再解釈された。比較的近い時期にはじまっているフィッカーと哲学者ハイデガーの思想的接近もこうして、もはやツェランのエピソードと無関係とは見なされなくなる。本稿ではさらに、ツェランによるトラークルの生産的受容の一例として、詩「フランスの思い出」における色彩と音の共感覚的表現を具体的に分析している。
著者
日名 淳裕
出版者
東京大学大学院ドイツ語ドイツ文学研究会
雑誌
詩・言語 (ISSN:09120041)
巻号頁・発行日
vol.73, pp.39-56, 2010-10

本稿は2009年度に提出した修士論文を大幅に改稿したものである。オーストリアの詩人ゲオルク・トラークルは1914年11月に従軍したガリチア地方クラカウの病院で自死したが、それ以来残された作品の解釈をめぐって多くの詩人、思索家らに言及されてきた。彼を経済的に支援したヴィトゲンシュタイン、1950年代に二つのトラークル論を書いたハイデガー、あるいはハイデガーとは真逆の理解を示したアドルノ、初期の作品にその影響が顕著な詩人ツェランらによる受容は有名であるが、現代詩人トーマス・クリングやテクノミュージシャンのクラウス・シュルツェといった比較的若い世代による解釈も注目に値する。彼らの受容評価は多様であるが、いずれもトラークルを詩人として捉えている点は共通している。散文や戯曲も残しているにもかかわらず、もっぱらその抒情詩のみが注目されてきた理由としては、生前から独占的にトラークルの作品を出版してきたチロル地方の文学グループ・ブレンナーの活動が指摘できる。本論はもうじき100年になるトラークル受容史の根幹においていまだ支配的なブレンナー・クライスによる理解を批判的に検討する。晩年の散文詩『啓示と没落』の評価をめぐって、ブレンナーの主張するような抒情詩の系譜においてではなく、同時期に制作された戯曲断片『小作人の小屋で...』との関わりにおいて草稿段階にまで遡り比較分析する。そこからアヴァンギャルドとしてのトラークルの功績を創作過程に探り、戯曲家ビュヒナーの影響に着目する。
著者
日名 淳裕
出版者
東京大学大学院ドイツ語ドイツ文学研究会
雑誌
詩・言語 (ISSN:09120041)
巻号頁・発行日
no.80, pp.143-163, 2014-09

本稿は2013年12月13日にウィーン大学ドイツ学科で行われたドクター・コロキウムでの発表原稿を日本語に訳し加筆したものである。なおオリジナルのドイツ語原稿は2014年6月25日にウィーン大学文学部に提出された博士論文Zur Rezeption Georg Trakls nach dem Zweiten Weltkrieg. Produktive Rezeption, Intertextualität, Strukturanalogie, Fortschreibenの一章をなすものである。今回はオーストリアの詩人インゲボルク・バッハマンによるトラークル受容について調査した。その際、第一詩集『猶予された時』(1953)出版にいたる、パウル・ツェランの影響下にフィッカーとのコンタクトを模索した第一期、第二詩集『大熊座の呼びかけ』(1956)を準備していた頃の作曲家ハンス・ヴェルナー・ヘンツェおよび詩人マリー・ルイーゼ・カシュニッツとの交流から詩作品の質的発展を求めた第二期、バッハマンによるトラークル受容をこの二つの時期に分けて考察した。また比較的その詩風にトラークルの影響が指摘されることの少ない印象を与えてきたバッハマンの研究史を丹念に辿りなおすことで、二人の接点を多角的に示そうとする二次文献を複数見つけることができた。その成果は本論中に図表としてまとめてある。経済的必要を動機として指摘できたり、他の詩人の影響という間接的な受容であったり、大枠として当時の文学的モードに収まるものであったり、バッハマンによるトラークル受容の本質は見極めにくい。その上で本論は、バッハマンの第二詩集に顕著な「言葉の音楽化」をバッハマンによるトラークル受容の結果として提起し、説明を試みた。(ドイツ語要約あり)
著者
日名 淳裕
出版者
東京大学大学院ドイツ語ドイツ文学研究会
雑誌
詩・言語 (ISSN:09120041)
巻号頁・発行日
vol.75, pp.87-109, 2011-11

本稿は東京大学ドイツ文学研究室で2010年11月25日に行われたドクター・コロキウムの発表原稿に加筆したものである。今回はハイデガーが第二次大戦後1950年代に発表したトラークル論をあつかった。はじめに、実際にハイデガーとも関係のあった二人の詩人アイヒとベンの作品分析をとおしてこの時期の抒情詩の傾向を概観し、それが当時の歴史的文脈と不可分であることを確認した。それからハイデガーの論文もまたこのような歴史的文脈の中においてこそ読まれるべきであるという主張を出発点として、戦後におけるハイデガーとブレンナー・クライスのかくれた結びつきを論文成立の最大の契機として指摘した。この論文が高度に政治的な意図を背景にもつものであり、そこで論じられたトラークルはまさにハイデガーによって<読み替えられた>といっても過言ではない。そしてこの論文を含むハイデガーの詩論集『言葉への途上』が後の抒情詩の自己規定に大きな影響を与えたことを顧みつつ、トラークルのテクストに対するハイデガーの具体的な作業をかれの<歴史性>理解への批判を中心に分析した。
著者
日名 淳裕
出版者
東京大学大学院ドイツ語ドイツ文学研究会
雑誌
詩・言語 (ISSN:09120041)
巻号頁・発行日
vol.80, pp.143-163, 2014-09

本稿は2013年12月13日にウィーン大学ドイツ学科で行われたドクター・コロキウムでの発表原稿を日本語に訳し加筆したものである。なおオリジナルのドイツ語原稿は2014年6月25日にウィーン大学文学部に提出された博士論文Zur Rezeption Georg Trakls nach dem Zweiten Weltkrieg. Produktive Rezeption, Intertextualität, Strukturanalogie, Fortschreibenの一章をなすものである。今回はオーストリアの詩人インゲボルク・バッハマンによるトラークル受容について調査した。その際、第一詩集『猶予された時』(1953)出版にいたる、パウル・ツェランの影響下にフィッカーとのコンタクトを模索した第一期、第二詩集『大熊座の呼びかけ』(1956)を準備していた頃の作曲家ハンス・ヴェルナー・ヘンツェおよび詩人マリー・ルイーゼ・カシュニッツとの交流から詩作品の質的発展を求めた第二期、バッハマンによるトラークル受容をこの二つの時期に分けて考察した。また比較的その詩風にトラークルの影響が指摘されることの少ない印象を与えてきたバッハマンの研究史を丹念に辿りなおすことで、二人の接点を多角的に示そうとする二次文献を複数見つけることができた。その成果は本論中に図表としてまとめてある。経済的必要を動機として指摘できたり、他の詩人の影響という間接的な受容であったり、大枠として当時の文学的モードに収まるものであったり、バッハマンによるトラークル受容の本質は見極めにくい。その上で本論は、バッハマンの第二詩集に顕著な「言葉の音楽化」をバッハマンによるトラークル受容の結果として提起し、説明を試みた。
著者
日名 淳裕
出版者
東京大学大学院ドイツ語ドイツ文学研究会
雑誌
詩・言語 (ISSN:09120041)
巻号頁・発行日
vol.73, pp.39-56, 2010-10

本稿は2009年度に提出した修士論文を大幅に改稿したものである。オーストリアの詩人ゲオルク・トラークルは1914年11月に従軍したガリチア地方クラカウの病院で自死したが、それ以来残された作品の解釈をめぐって多くの詩人、思索家らに言及されてきた。彼を経済的に支援したヴィトゲンシュタイン、1950年代に二つのトラークル論を書いたハイデガー、あるいはハイデガーとは真逆の理解を示したアドルノ、初期の作品にその影響が顕著な詩人ツェランらによる受容は有名であるが、現代詩人トーマス・クリングやテクノミュージシャンのクラウス・シュルツェといった比較的若い世代による解釈も注目に値する。彼らの受容評価は多様であるが、いずれもトラークルを詩人として捉えている点は共通している。散文や戯曲も残しているにもかかわらず、もっぱらその抒情詩のみが注目されてきた理由としては、生前から独占的にトラークルの作品を出版してきたチロル地方の文学グループ・ブレンナーの活動が指摘できる。本論はもうじき100年になるトラークル受容史の根幹においていまだ支配的なブレンナー・クライスによる理解を批判的に検討する。晩年の散文詩『啓示と没落』の評価をめぐって、ブレンナーの主張するような抒情詩の系譜においてではなく、同時期に制作された戯曲断片『小作人の小屋で...』との関わりにおいて草稿段階にまで遡り比較分析する。そこからアヴァンギャルドとしてのトラークルの功績を創作過程に探り、戯曲家ビュヒナーの影響に着目する。
著者
日名 淳裕
出版者
東京大学大学院ドイツ語ドイツ文学研究会
雑誌
詩・言語 (ISSN:09120041)
巻号頁・発行日
vol.80, pp.143-163, 2014-09

本稿は2013年12月13日にウィーン大学ドイツ学科で行われたドクター・コロキウムでの発表原稿を日本語に訳し加筆したものである。なおオリジナルのドイツ語原稿は2014年6月25日にウィーン大学文学部に提出された博士論文Zur Rezeption Georg Trakls nach dem Zweiten Weltkrieg. Produktive Rezeption, Intertextualität, Strukturanalogie, Fortschreibenの一章をなすものである。今回はオーストリアの詩人インゲボルク・バッハマンによるトラークル受容について調査した。その際、第一詩集『猶予された時』(1953)出版にいたる、パウル・ツェランの影響下にフィッカーとのコンタクトを模索した第一期、第二詩集『大熊座の呼びかけ』(1956)を準備していた頃の作曲家ハンス・ヴェルナー・ヘンツェおよび詩人マリー・ルイーゼ・カシュニッツとの交流から詩作品の質的発展を求めた第二期、バッハマンによるトラークル受容をこの二つの時期に分けて考察した。また比較的その詩風にトラークルの影響が指摘されることの少ない印象を与えてきたバッハマンの研究史を丹念に辿りなおすことで、二人の接点を多角的に示そうとする二次文献を複数見つけることができた。その成果は本論中に図表としてまとめてある。経済的必要を動機として指摘できたり、他の詩人の影響という間接的な受容であったり、大枠として当時の文学的モードに収まるものであったり、バッハマンによるトラークル受容の本質は見極めにくい。その上で本論は、バッハマンの第二詩集に顕著な「言葉の音楽化」をバッハマンによるトラークル受容の結果として提起し、説明を試みた。