- 著者
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松岡 由佳
- 出版者
- 公益社団法人 日本地理学会
- 雑誌
- 日本地理学会発表要旨集
- 巻号頁・発行日
- vol.2018, 2018
精神疾患は,2013年度から日本の医療計画における五疾病の一つに位置付けられた.メンタルヘルスの問題がますます身近なものとなっている今日にあっては,医学的・心理学的な病理や心的メカニズムとともに,日常の様々な空間とメンタルヘルスとのかかわりを解明する必要がある.英語圏の地理学者は,1970年前後から,既にこうした問題意識のもとで実証研究に取り組み始めた.本発表の目的は,メンタルヘルスを扱う英語圏の研究動向を整理し,その主題や方法論を検討することを通じて,メンタルヘルスへの地理学的な視点の有効性と課題を提示することである.<br> 戦後,ノーマライゼーション理念の進展と福祉国家の危機は,思想と財政の双方の側面から,精神病院の解体と地域におけるケアの推進を要請した.この大きな政策的転換は脱施設化と呼ばれ,1960年代頃から欧米各国で進展した.地域の小規模な施設やサービスの整備が求められる中で,その立地やアクセシビリティが研究課題となった.サンノゼやトロント,ノッティンガムなど北米やイギリスの都市を事例に,センサスや土地利用に関するデータから,サービス利用者の社会・経済的属性や施設の立地とその背景要因が分析された(例えば,Dear and Wolch 1987).施設立地をめぐる紛争や近隣住民の態度を取り上げた研究も同様に,変数間の関連性を分析する計量的手法に依拠していた.<br> 医学地理学や公共サービスの地理の一潮流として興隆したメンタルヘルス研究は,1990年前後に主題や方法論の転機を迎える.地理学における文化論的転回や,健康地理学や障害の地理の台頭が背景となり,社会・文化地理や歴史地理などの幅広い視点から,政策の再編とロカリティ(Joseph and Kearns 1996),「狂気」の歴史(Philo 2004),精神障がい者のアイデンティティ(Parr 2008)といったテーマが取り上げられた.史料や文学作品の分析,インタビュー調査や参与観察などの質的手法が導入されるとともに,研究対象となる時代や地域,空間スケールが多様化した.近年は,以上のような精神障がいに着目する研究に加えて,精神的な健康を,貧困や剥奪などの社会環境や,自然や災害・リスクから検討する研究も登場した(Curtis 2010).<br> 政策の転換に伴う現象を空間的に捉えた一連の研究は,1990年前後を境に主題や手法を多様化させ,個々の研究分野へと細分化する傾向にある.こうした点はメンタルヘルス研究の課題であるとともに,分野間に関連性を持たせ,より大きな枠組みから地理的現象を解明する上で,メンタルヘルスが有効な視点になりうることをも示唆している.<br>文献<br>Curtis, S. 2010. <i>Space, place and mental health</i>. Routledge.<br>Dear, M. J. and Wolch, J. 1987. <i>Landscape of despair: From deinstitutionalization to homelessness.</i> Polity Press.<br>Joseph, A. E. and Kearns, R. A. 1996. Deinstitutionalization meets restructuring: The closure of a psychiatric hospital in New Zealand. <i>Health & Place</i> 2(3): 179-189.<br>Parr, H. 2008. <i>Mental health and social space: Towards inclusionary geographies?</i> Blackwell.<br>Philo, C. 2004. <i>A geographical history of institutional provision for the insane from medieval times to the 1860s in England and Wales: The space reserved for insanity</i>. Edwin Mellen Press.<br><br>本研究の一部には,平成28・29年度日本学術振興会科学研究費補助金(特別研究員奨励費:課題番号16J07550)を使用した.