著者
森 良和
出版者
玉川大学教育学部
雑誌
論叢 : 玉川大学教育学部紀要 (ISSN:13483331)
巻号頁・発行日
pp.117-134, 2016

ウィリアム・アダムズ(三浦按針)の日本人妻の人物像については従来ほとんど踏み込んだ研究はなされていない。史料がごく限られるからである。しかし,これまでは特に吟味されることなく,夫人の出自と名前が「馬込勘解由の娘おゆき」とされることが多かった。本稿では主に当時来日していた西洋人の記録を検証しながら,これらについて改めて考察し,自身の見解を示していく。
著者
森 良和
雑誌
論叢:玉川大学教育学部紀要 (ISSN:13483331)
巻号頁・発行日
no.2013, pp.81-98, 2014-03-31

メルヒオール・ファン・サントフォールトは,1600年に豊後に到着したオランダ船リーフデ号の船員の一人である。彼はウィリアム・アダムズのように旗本扱いとはならなかったが,平戸のオランダ・イギリス両商館とも取引し,自由市民として独自に商売を営んだ。リーフデ号の船員のなかで最も長生きした彼は,およそ40年間を日本で過ごしたが,幕府の鎖国政策によってバタヴィアに追放され,その地で死去した。リーフデ号の船員はだれ一人母国に帰還せず,ほとんどは自らの意思で日本にとどまった。本稿では従来扱われることのなかったサントフォールトの生涯を明らかにし,当時世界に雄飛したオランダ人船員の生き方の一例を考察する。
著者
森 良和
雑誌
論叢:玉川大学教育学部紀要 (ISSN:13483331)
巻号頁・発行日
no.2016, pp.117-134, 2017-03-31

ウィリアム・アダムズ(三浦按針)の日本人妻の人物像については従来ほとんど踏み込んだ研究はなされていない。史料がごく限られるからである。しかし,これまでは特に吟味されることなく,夫人の出自と名前が「馬込勘解由の娘おゆき」とされることが多かった。本稿では主に当時来日していた西洋人の記録を検証しながら,これらについて改めて考察し,自身の見解を示していく。
著者
兼森 良和
出版者
医学書院
巻号頁・発行日
pp.2317-2320, 2004-12-15

麻痺性兎眼に対して下眼瞼瞼板の水平短縮と下眼瞼形成術を同時に行うKuhnt-Szymanowski法では,高度の下眼瞼下垂と外反がある場合には修正が不十分である。その改善法として,筆者の考案した下眼瞼皮膚切開線を側頭部の外側上方まで延長して外側上方に引き上げ,下眼瞼前葉を眼窩外側縁骨膜にanchor sutureで固定する骨膜固定法(Kuhnt-Szymanowski変法)を4例に行い,奏効した。この方法は特別な材料を必要とせず,高度の下眼瞼下垂と外反がある麻痺性兎眼に対して有効である。
著者
森 良和
出版者
玉川大学教育学部
雑誌
論叢 : 玉川大学教育学部紀要 (ISSN:13483331)
巻号頁・発行日
pp.103-119, 2012

ディルク・ヘリッツゾーン・ポンプは「初めて日本に来たオランダ人」であり,豊臣秀吉の天下統一以前の1580年代に長崎に来航した。エンクハイゼンに生まれ,リスボンで青少年期を送ったディルクは,インドのゴアに20年滞在し砲手として生計を立てた。その間に二度中国と日本を訪問した。1590年に故郷に帰還したディルクは,オランダ人に日本や中国の素晴らしさを盛んに伝えたため「ディルク・シナ」の渾名がついた。東インド情勢に明るいディルクは,1598年,東洋遠征船隊の一員としてウィリアム・アダムズらとともにオランダを出帆し,自らは南米でスペイン人の捕虜となったものの,アダムズらリーフデ号の日本来航を促した。その後解放されて再度故郷に戻ったディルクは,2年後には東インド会社の船団で最後の航海に出た。一般にはあまり知られてないディルクであるが,日欧交渉史に少なからず影響を及ぼしている。本稿では従来断片的にしか述べられなかったその生涯と人物像,および歴史的に果たした役割について考察した。
著者
森 良和
出版者
玉川大学教育学部
雑誌
論叢 : 玉川大学教育学部紀要 (ISSN:13483331)
巻号頁・発行日
pp.81-98, 2013

メルヒオール・ファン・サントフォールトは,1600年に豊後に到着したオランダ船リーフデ号の船員の一人である。彼はウィリアム・アダムズのように旗本扱いとはならなかったが,平戸のオランダ・イギリス両商館とも取引し,自由市民として独自に商売を営んだ。リーフデ号の船員のなかで最も長生きした彼は,およそ40年間を日本で過ごしたが,幕府の鎖国政策によってバタヴィアに追放され,その地で死去した。リーフデ号の船員はだれ一人母国に帰還せず,ほとんどは自らの意思で日本にとどまった。本稿では従来扱われることのなかったサントフォールトの生涯を明らかにし,当時世界に雄飛したオランダ人船員の生き方の一例を考察する。
著者
森 良和
雑誌
論叢:玉川大学教育学部紀要 (ISSN:13483331)
巻号頁・発行日
no.17, pp.57-80, 2017-12-25

1600年,オランダ船リーフデ号で日本に来航したイギリス人ウィリアム・アダムズは,来航直後から徳川家康に寵遇された。来日数年後,アダムズは家康から西洋船の建造を命じられ,2隻の船を造った。本稿ではこれらの西洋船が造られた経緯とそれが持つ歴史的意味について,家康の外交政策とアダムズの描いた北西航路探検構想との関連で考察していく。特に日本とフィリピンのスペイン人,およびオランダ人,イギリス人などとの関わりを中心に所論を展開していく。
著者
森 良和
出版者
玉川大学教育学部
雑誌
論叢 : 玉川大学教育学部紀要 (ISSN:13483331)
巻号頁・発行日
pp.61-80, 2015

1577年,ロンドンで発刊された世界地誌書『東西インド誌』は,イギリスで最初に日本について説明した項目「日本島」を含んでいる。編者のリチャード・ウィルズは大航海時代の諸成果を受けて,ヨーロッパ以外の世界の情勢に関心を持っていた。一時聖職者を目指していたウィルズであるが,多様な新世界情勢を紹介したリチャード・イーデンの仕事を受け継ぎ,アジア地域をも含めた世界地誌書を完成させた。それが『東西インド誌』であるが,内容の多くはイベリア半島からの情報によっている。特に日本についてはザビエルやフロイスをはじめとするイエズス会宣教師からのものであることが「日本島」の文章から読み取れる。本稿は当時の日本がどのようにイギリスに紹介されたのかを具体的に示すとともに,「日本島」の典拠を明らかにするものである。