著者
横田 恭三
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
no.36, pp.57-73, 2003-03

水野疎梅(一八六四〜一九二一)の名は元直,字は簡卿,疎梅と号した。疎梅は,明治四四年(一九一一)辛亥革命勃発のさなか,上海に難を逃れていた楊守敬に四ヶ月の間師事し,『学書邇言』と『隣蘇老人年譜』の二稿本を筆写したものを持ち帰った。楊守敬亡き後,呉昌碩・王一亭らと詩・書・画を通じた交流を重ねたことが,彼の遺編『疎梅詩存』や呉昌碩『缶廬集』などから窺える。が,疎梅の日本における活動については,今日まであまり知られていなかった。昭和四年に刊行された『福岡県碑誌』の記録によって,疎梅の出身地である福岡県内には,彼の撰文になるものや,あるいは撰文と揮毫の両方を手掛けた碑誌が五基制作されていることがわかった。調査の結果,五基中四基が現存していた。書体はいずれも楷書であるが,その書風には大きな相違があり,楊守敬の影響が色濃く反映されたものと考えられる。本稿では,今回実地調査できた碑文と『福岡県碑誌』とを対照しながら,疎梅が関係した経緯などを探り,さらにこれらの碑誌に刻まれた疎梅の書風がどのようなものであったかを考察する。
著者
横田 恭三
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.83-95, 2000-03-15

一九八一年に發掘された龜山漢墓は、前漢時代の第六代楚の襄王劉注夫妻の墓である。この合葬墓の甬道に隙間なく置かれていた塞石には、朱書文字や配置番號が刻されていたが、これ以外にも先王の遺訓かと見られる長文の刻銘が殘されていた。顧風氏はこれを盗掘防止のための刻銘であると推論した。文字は馬王堆帛書などに共通する書風であり、當時の通行書體といえる。この塞石刻銘の解釋と書風について考察し、あわせて前漢時代における石刻文字の概要をまとめた。