著者
武田 武長
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.1-15, 1996-12-10 (Released:2020-07-20)

戦後日本のキ-スト教にとって、克服しなければならない過去、清算しなければならない過去-それも日本のキリスト者にとって特別な最も深刻な過去とは何かを考えることは、いぜんとして根本問題である。これは、その日本のキリスト教の根本問題を、戦時下のドイツのキリスト教との同時代史的な比較をとおして、天皇制とのかかわりで明らかにしようとしたものである。戦後五十一年の今あらためて日本のキリスト教の過去を真攣にふりかえるならば、戦時下におかされたその罪が単に戦争協力という程度のものではなかったことは明らかである。それは、「国民儀礼」という名のもとに天皇教儀礼を受け入れ、神と並べて「天皇」と「皇国」を置いた罪、その実は「天皇」と「皇国」を神の御座の上に置いた偶像礼拝の罪であった。これは日本のキリスト教にとってまことに深刻な過去である。本来は、この過去の克服をぬきにして戦後の日本のキリスト教の再出発はありえなかったはずである。それはキリスト教会についてばかりでなく、キリスト教系学校についても妥当することなのである。
著者
武田 武長
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.1-15, 1996-12-10

戦後日本のキ-スト教にとって、克服しなければならない過去、清算しなければならない過去-それも日本のキリスト者にとって特別な最も深刻な過去とは何かを考えることは、いぜんとして根本問題である。これは、その日本のキリスト教の根本問題を、戦時下のドイツのキリスト教との同時代史的な比較をとおして、天皇制とのかかわりで明らかにしようとしたものである。戦後五十一年の今あらためて日本のキリスト教の過去を真攣にふりかえるならば、戦時下におかされたその罪が単に戦争協力という程度のものではなかったことは明らかである。それは、「国民儀礼」という名のもとに天皇教儀礼を受け入れ、神と並べて「天皇」と「皇国」を置いた罪、その実は「天皇」と「皇国」を神の御座の上に置いた偶像礼拝の罪であった。これは日本のキリスト教にとってまことに深刻な過去である。本来は、この過去の克服をぬきにして戦後の日本のキリスト教の再出発はありえなかったはずである。それはキリスト教会についてばかりでなく、キリスト教系学校についても妥当することなのである。
著者
武田 武長
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.69-80, 1992-12-10

ユダヤ人に対する迫害・大量虐殺(ホロコースト)がナチ・第三帝国の犯罪の中でも特別なものとしてまず第一に挙げられなければならない最大の罪であるといって過言でないにもかかわらず、戦後ドイツの「過去の克服」の原点とまで呼ばれて評価されているドイツ福音主義教会常議員会の発表した一九四五年一〇月一九日の『シュトゥットガルト罪責告白』には、そのことについて直接的、明示的な文言は存在していない。ユダヤ人のホロコ-ストに対する戦後ドイツ福音主義教会の罪責認識は、いったいこの『シュトゥットガルト罪責告白』以降どのような歩みをたどって明確に得られるようになったのか、そしてその罪責認識にもとづいて直接的・明示的な罪責告白がなされるようになったのか、資料にもとづいて明らかにする。ユダヤ人に対する罪責認識の新しい局面はようやく一九六〇年代になって開かれ、ユダヤ人のホロコーストに対する教会の沈黙と無為というよりも、むしろユダヤ人について・ユダヤ人に対して教会が語ってきたことと行なってきたこと-伝統的なキリスト教神学的反ユダヤ主義-の中にこそ教会の罪責があるという認識に至った。