著者
江藤 茂博
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.38, no.4, pp.12-19, 1989

「かんかん虫」の<私>は、文盲でないということで、他の虫たちとの差異性を示していた。それは、当時アメリカの移民制限の方法としての識字テスト実施と重ねても、有島武郎には大きな差異をイメージするものだった。そして、<私>と虫たちとのその違いを辿っていくと、一つには視線のあり方の差が顕在化する。虫たちのそれは「見据え」「見返す」ものであるのに対し、「私」の視線は虫たちのようなそれを与えはしない。この<私>と虫たちとの差異がもっとも明らかになるのは、ペトニコフが倒される場面であった。ここでは、物語時間の流れをゆがませ、<私>が事件そのものを視ることを回避させたのである。この、現実感覚とは異なった時間構成を生んだのは、作者有島にこの虫たちの「法律的制裁」を許容する論理がなかったからだ。この虫たちの暴力行為は、明治四十年七月のティルダ宛書簡などで示されているように、それを肯定できなかったのが当時の有島だったのである。その為に「かんかん虫」は、作品の内側では時間のゆがみをはらみながら、<私>の気分的な高揚で終わるしかなかったのである。
著者
江藤 茂博
出版者
二松学舎大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2005

(1) 小説が映像化されて映画やテレビドラマとして提供されている現実をデータとして把握した。(2) 具体的な言語表現による作品の映像化に関する分析を行った。(3) 小説の映像化作品も含めた日本の映画やテレビドラマの世界的な広がりを違法コピー市場を中心に調査した。
著者
江藤 茂博
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.43, no.1, pp.12-21, 1994-01-10 (Released:2017-08-01)

『羅生門』というテキスト空間の重層性は、旧記、登場人物「作者」の書いた先行するテキスト「羅生門」、そしてそれらを手にした「語り手」が、自らの語りのテキスト生成のありようを示すという構造であるとみて、示した。つぎに、その「語り手」の視線と下人の視線とを比較することで、これまで多くの読老が「語り手」の支配できない箇所に自らの物語を、しかも「語り手」とおなじ論理で、埋めていく構造を示した。そしてこの物語が近代的な自己同一性の物語として無批判に成立してきたのは、このテキスト空間の重層性と、そして本来的な無秩序性の存在によるものだということを指摘した。そして、このテキストの空間における下人の非決定的な在り方は、「語り手」と近代的な価値観によって隠蔽されてきた下人の姿であった。