- 著者
-
河原 国男
- 出版者
- 日本教育学会
- 雑誌
- 教育学研究 (ISSN:03873161)
- 巻号頁・発行日
- vol.69, no.1, pp.147-155, 2002-03
本稿はヴェーバーの「比較宗教社会学」のなかの中国儒教論をとり上げ、ピューリタン的合理主義(現世支配的合理主義)と儒教的合理主義(現世適応的合理主義)との比較を通じて、それぞれに基づく教育観の特質を明らかにし、その上で、この二つの類型を封建日本論と関連づけながら、ヴェーバーによるこの合理主義の対比が同じく儒教の展開した日本近世の教育思想史にどのような教育上の見通しを提起するものであったかを考察した。その結果、つぎのことが仮説として明らかになった。1)たしかに日本近世儒教の教育理念には、客観的で非人格的な(没我的)性格(即事性)の使命(日常的課題)を有するピューリタン的合理主義から隔てられるという仮説が成り立つ部分がある。二つの点がある。第一に前者の場合、非客観性(「非即事性」)として特徴づけられ、情誼的な所与の人間関係、とくに「孝」を枢要徳とする「人間関係優先主義」ではないか。第二に封建社会の倫理として、「騎士的人間形成」を目標としている前者は「人格的なもの」の崇拝として特徴づけられるのではないか。こうした点で、日本儒教は、中国儒教の特質と接近する。2)しかし、他方では、封建日本の倫理が、中国儒教と違って、プロテスタンティズムの現世支配的合理主義と類似するという仮説も、同時に成り立っていた。二つの点がある。第一に、封建日本の枢要徳が、個人的自発性(覚悟・決断)に根ざして、封臣の主君に対する忠誠を重んじていること、第二に、「貴族主義」に通ずる「距離感と品位」の貴族的感覚を育むとともに、動物的衝動性に対する自己規律としても特徴づけられる、「遊技」を重んじていることである。こうした諸特性は、禁欲的プロテスタンティズムの自己支配と共通していた。ここにヴェーバーの論説から導かれる上の推測から、一つの問いを提示することができる。いったい日本近世の思想史において、実質的に人間形成の思想はどのような内容を示したか。要するに、a)現世支配的な合理主義が展開したのか、それともb)現世適応的な合理主義が展開したのか、このような合理主義の両概念は根本的な教育態度と緊密に結びついていた。前者は人間形成における「即事性」主義で、後者は「人間関係主義」である。どちらの教育的合理主義がその思想史において優勢だったか。このような問いをわれわれは「ヴェーバー問題」の一つとして特徴づけることができる。この問いは、日本の精神的な近代化の見地から重要である。a)のケースとして荻生徂徠、b)のケースとして徂徠以後の朱子学、を想定することができるだろう。