著者
河原 国男
出版者
日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.77, no.3, pp.255-270, 2010

本稿はマックス・ヴェーバー(1864-1920)の1919年の論文「職業としての政治」を、第一次大戦敗北にともなう君主制崩壊後の指導者不在に対応して、自国の民主的な政治指導者をいかに形成するかという政治教育の課題を思想的に受けとめたテクストとして検討した。その結果、社会的現場での、「カリスマ的教育」に相当する苛酷な「修練」に耐えることを通じ、政治上の理念を政治指導者たるべき者がみずからの追随者に対し不断に「実証」して指導者選抜を図りつつ、自己自身を内面的に支配するのみならず、行為結果や環境との関連で客観的に自己対象化するという主体形成の思想が摘出できた。こうして政治家としての指導者諸資質を意図して形成することを求めるヴェーバー政治教育思想は、等しく民主主義の理念に導かれつつも同時代の公民教育とは異なった思想的可能性を示していた。
著者
河原 国男
出版者
日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.69, no.1, pp.147-155, 2002-03

本稿はヴェーバーの「比較宗教社会学」のなかの中国儒教論をとり上げ、ピューリタン的合理主義(現世支配的合理主義)と儒教的合理主義(現世適応的合理主義)との比較を通じて、それぞれに基づく教育観の特質を明らかにし、その上で、この二つの類型を封建日本論と関連づけながら、ヴェーバーによるこの合理主義の対比が同じく儒教の展開した日本近世の教育思想史にどのような教育上の見通しを提起するものであったかを考察した。その結果、つぎのことが仮説として明らかになった。1)たしかに日本近世儒教の教育理念には、客観的で非人格的な(没我的)性格(即事性)の使命(日常的課題)を有するピューリタン的合理主義から隔てられるという仮説が成り立つ部分がある。二つの点がある。第一に前者の場合、非客観性(「非即事性」)として特徴づけられ、情誼的な所与の人間関係、とくに「孝」を枢要徳とする「人間関係優先主義」ではないか。第二に封建社会の倫理として、「騎士的人間形成」を目標としている前者は「人格的なもの」の崇拝として特徴づけられるのではないか。こうした点で、日本儒教は、中国儒教の特質と接近する。2)しかし、他方では、封建日本の倫理が、中国儒教と違って、プロテスタンティズムの現世支配的合理主義と類似するという仮説も、同時に成り立っていた。二つの点がある。第一に、封建日本の枢要徳が、個人的自発性(覚悟・決断)に根ざして、封臣の主君に対する忠誠を重んじていること、第二に、「貴族主義」に通ずる「距離感と品位」の貴族的感覚を育むとともに、動物的衝動性に対する自己規律としても特徴づけられる、「遊技」を重んじていることである。こうした諸特性は、禁欲的プロテスタンティズムの自己支配と共通していた。ここにヴェーバーの論説から導かれる上の推測から、一つの問いを提示することができる。いったい日本近世の思想史において、実質的に人間形成の思想はどのような内容を示したか。要するに、a)現世支配的な合理主義が展開したのか、それともb)現世適応的な合理主義が展開したのか、このような合理主義の両概念は根本的な教育態度と緊密に結びついていた。前者は人間形成における「即事性」主義で、後者は「人間関係主義」である。どちらの教育的合理主義がその思想史において優勢だったか。このような問いをわれわれは「ヴェーバー問題」の一つとして特徴づけることができる。この問いは、日本の精神的な近代化の見地から重要である。a)のケースとして荻生徂徠、b)のケースとして徂徠以後の朱子学、を想定することができるだろう。
著者
河原 国男
出版者
日本特殊教育学会
雑誌
特殊教育学研究 (ISSN:03873374)
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.41-48, 1985-09-30

本稿では、江戸後期ヨーロッパ系医学書として『解体新書』『病学通論』『察病亀鑑』『扶氏経験遺訓』に着目し、それらの書を通じてどのような運動障害認識が示されているかを検討した。その結果、次のことが明らかになった。人体の生理・解剖学上の観点から「脊髄麻痺」という運動障害が捉えられていた。それは一般化されたかたちで把握され、「局所麻痺」の一種として、さらに上位の概念としては「麻痺病」に疾病分類されていた。このように記述された脊髄麻痺の運動障害は「交感」性の問題としてその原因が理解されていた。そして、この障害に対する処置としては長い時間をかけて自然治癒する可能性をもった「人身」という人間観に支えられ、その精神・身体の両側面を育成、発揮させるような指導法が示されていた。人体について「物に質す」という方法に基づいて、このような指導論を展開させた点に、上記ヨーロッパ系医学書がはたした注目すべき歴史的意義があった。
著者
河原 国男
出版者
日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.74, no.3, pp.321-334, 2007-09

16-7世紀、教育慣行の結果、世俗内職業労働を「天職」として励んだという事例を究明したM.ヴェーバーの工業労働調査論を本稿では中心にとりあげ、同時代の20世紀初頭の工場労働を通じて意図的、無意図的にどう資質能力が形成されるか、という認識を、人間形成契機としての自律化を視点に跡づけた。その結果、国民を対象とする政治教育の課題認識と繋がりつつ、機械化とともに、自律化の契機も同等に探究されていた様相が明らかにできた。すなわち、工場内分業労働での「練習」を通じて、労働外の価値関係的関心にも導かれながら合理的に「考量」しつつ、また中世職人のように最終生産物を生産するように市場的関心をもって働くこと、そうした「実践」を通じて自己自身を人間形成的に配慮するという自律化の可能性が、工場機械化のただなかでも探究されていた。