著者
山田 哲也
出版者
日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.73, no.4, pp.403-419, 2006

学校教育の社会化機能が格差是正に資する可能性を検討するために、本論文では、質問紙調査データを用いて互恵的関係の規定要因を分析した。家族的背景に関わらず、学校生活に適応し良好な友人関係を有する者、学校知識に意義を感じる者ほど共感・互助志向が高く、格差増大に歯止めをかける意識・態度がみられた。他方で、学年段階が上がるほど、「勉強が得意」と考える者ほど共感・互助志向が低く、共感・互助志向と密接に関連する努力主義には、格差化を追認する側面が認められた。分析結果は、学校教育による格差是正の試みが楽観論と悲観論のいずれにも展開する可能性を示唆している。悲観的なシナリオを避けるためには、子ども・若者が所属する場を学校以外にも用意すること、学校知識の意味づけを能力の共同性を強調するものに組み替えることが肝要である。これらを踏まえ互恵的な関係を学校教育で育成することは、格差の拡大を抑止する手助けとなるだろう。
著者
麻生 誠
出版者
日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.32, no.4, pp.21-32, 1966-01
著者
水原 克敏
出版者
日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.69, no.4, pp.519-526, 2002-12

Tohoku University System Committee completed an interim report on the new system plan in preparation for the new university administration system as an "Independent Administrative Institution".The report was submitted to Tohoku University Council on Septemper 24, 2002.The resposes to the interim report from all the departments are to be presented to the Tohoku University Counsil in October, and the final reprt is scheduled for completion by March 2003.University regulations will have been put together by May when the bill was laid bedore the Diet in May.The structure of this thesis is as follows:(1)the system of the decision making of the entire Tohoku University (the president, director association, counsil, management conference, and dean conference) and (2)the system of the decision making within each department (dean, management conference , and faculty meeting) and (3)the collective system of the clerical office staff and (4) the personnel management and the performance ralated payment, and (5)the prpblems to be solved.The emphasis is placed upon the integration of the following three elements:(1)the leadership of theoresident and the associated directors,(2)the democracy within Tohoku University, and (3)outsider's opinions.The approach to the issue of how best the above three elements are to be integrated will decide the course hat Tohoku Univeristy will follow to make its advancement.The second issue is the decision making orocess in each department.Whikr the management conference which assist the dean eill be newly established, the relation between the management conference and the faculty meeting is rather vague.It is likely that the that the management conference will take part in most of the decision making process within each department, which signifies that the role of the faculty meeting become less important.The third issue is the consolidation of the clerical work organization.On one hand the colletive clerical work organization will improve its efficiency.On the other, the the existing friendly relations between clerical staff and a department will be weakened.However, this kind of drawback is probably inevitable.The fourth issue is the personnel management, and the performance related payment.It is agreed that the system of deciding the payment in accordance with seniority has to be abolished.Neverthless, it is difficult to evaluate the performance in terms of research, which remains a problem to be solved.Above all the issues discussed in this paper however , what is important is the implementation of the new university administration based on the new principles.
著者
武居 渡
出版者
日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.70, no.4, pp.536-546, 2003-12-30

金沢大学教育学部障害児教育
著者
舘 かおる
出版者
日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.66, no.4, pp.406-416, 1999-12

本論では、日本の大学における教養教育の分野でなし得ている、女性学・ジェンダー研究の貢献について検討する。 従来の定義に従えば、教養教育の役割は、人文学と自然科学の幅広く基礎的な「知」の習得を通じて、学生たちを良く均整のとれた人間に成長させるように促すことであるが、第二次女性解放運動後、その「知」は、ジェンダー化(性別に関わる偏向がある状態)されていると認識されるようになった。ジェンダーは、我々の社会組織や自分自身の経験の最も基本的な構成物の一つである。また、ジェンダー関係を理解することは、地域的にも世界的にも、社会変化の過程と現代の社会生活を理解するための中心と言える。それ故、大学の教養教育にジェンダーの視点を組み入れることは、重要なことである。他の国々と比較すると、日本ではそんなに多くの大学ではないが、女性学・ジェンダー研究を提供している。国立婦人教育会館が行った調査によれば、1996年で351の大学が、女性学・ジェンダー論の講座を開設しているが、学部レベルで女性学・ジェンダー研究の学位を取得できる大学は皆無であり、大学院レベルでは城西国際大学とお茶の水女子大学で修士と博士の学位を習得できるのみである。 本論では、一章で、日本の大学において見られるジェンダー・バイアスの様々な局面について、大学の女性教員数が少ないことを含め、論じている。二章では、日本の大学における女性学・ジェンダー論講座の概況について述べている。三章では、女性学・ジェンダー論講座を登録する学生が増えているいくつかの理由について考察している。その理由の一つには、この講座を教える者たちが用いる革新的な教育方法にある。四章では、女性学・ジェンダー研究が提供する「新しい知」に直面した学生の反応をいくつか記述している。 日本の教育システムは、一般に学生たちの経験から分離した様々な知を暗記して吸収するよう教えられることが普通である。しかし、本論で示すように、学生たちは、女性学・ジェンダー論を履修して、知がどのように構築されているかを知るようになり、同時に、既存のシステムを疑い、挑戦し、新しい知を構築する力を得ることを実感する。さらに、ジェンダー・アイデンティティが社会的文化的に構築されるという気付きは、社会的な慣習や規範に縛られることなく、自分のアイデンティティを構築し、新たな未来を発見する可能性を開くようになる。また、女性学・ジェンダー論は、公的領域でのジェンダー化された権力関係を見ることも可能にする。例えば学生たちは、少年のグループによって,女子高校生が連れ去られ、強姦され、殺された時の、メディアの報道における隠されたジェンダー・バイアスを見つける。日本の法システムにおいて、強姦犯に課する罰の軽さと同様に、強姦の被害者に対する警察の扱いが軽いことに、男子学生、女子学生に限らず、学生たちは警告を発するようになることにも触れている。一端、社会システムも知もジェンダー化されていることを認識すると、例えば、フランス革命における人権宣言や共和制の理念が、女性を排除したことの意味を、学生たちはたやすく理解する。さらに、近代科学が女性と人種に対し差別化したことも知り得る。このような気付きは、ジェンダー・バイアスのない新しい知を創ることが重要と考えるように彼らを力づける。 多くの国で、様々な分野におけるジャンダー分析が、有益であり重要であると認識されている。それ故、21世紀においては、すべての大学の教養教育に、女性学・ジェンダー研究の視点が含まれるべきであると思われる。\\r\\\\\r\\\In this paper, I will examine the contribution of women's studies/gender studies in the area of "kyoyo kyoiku" (Liberal/General Education) in Japanese universities. According to the traditional definition, the role of "kyoyo kyoiku" is to assist the development of well-balanced personality among university students through the acquisition of broad-based knowledge in Arts and Sciences. But after the second wave of women's movement, it is generally accepted that "knowledge" is genderized. Gender is one of the most fundamental structures of our social organization and our experiences of ourselves. An understanding of gender relations is therefore central to an understanding of contemporary social life and processes of social change, locally and globally. It is therefore important to include gender perspectives in "kyoyo kyoiku" at the universities. Com-pared to other countries, however, not many Japanese universities offer women's/gender studies. According to the survey done by the National Women's Education Center in 1996, 351 universities have such courses but none offers a degree course at the undergraduate level. And at the graduate level, Josai International University and Ochanomizu University offer M.A. and Ph.D.degrees. Section One discusses various aspects of gender bias found in Japanese universities, including the under-representation of female faculty members. Section Two introduces a general survey of women's/gender studies courses offered in various Japanese universities. Section Three considers several reasons for the increase in the number of students enrolling in women's/gender studies courses. One reason is the innovative method of teaching employed by those who teach the courses. Section Four describes some of the students' reactions, when they are confronted with "new knowledge" offered by women's/gender studies. In the Japanese education system, students are normally instructed to memorise and absorb "knowledge" which is remote from their own experiences. But this paper shows that when students are exposed to women's/gender studies, they come to see how "knowledge" is constructed, and realize that they have the power to challenge /question the old value system and construct a new one. Furthermore, the awareness of how gender identities are socially/culturally constructed opens the possibility of constructing their own identity without being bound by social convention and thus of discovering a new future. Women's/gender studies also enable them to see the gendered power relationship in public arena. For example, upon examining an incident when a high school girl was kidnapped, raped and murdered by a group of youths, most students taking these courses were able to see the hidden gender bias in mass media.
著者
黒崎 勲
出版者
日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.38, no.1, pp.19-28, 1971-03
著者
照屋 信治
出版者
日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.76, no.1, pp.1-12, 2009

従来、近代沖縄教育史研究は「皇民化教育」「同化教育」という用語で、近代沖縄教育の基本的性格を言い表し、明治国家の教育政策の抑圧性を批判する視座が支配的であった。そのような研究視座は、「同化教育」「皇民化教育」の抑圧性を強調するあまり、沖縄人の主体的営為への着眼が薄いという問題を抱えてきた。そこで、本稿では「嚏(くしゃみ)する事まで他府県の通りにする」と発言し「皇民化教育」「同化教育」の象徴的存在とされてきた新聞人・太田朝敷(1865-1938)の沖縄教育に関する思想や「新沖縄」の構想を再検討した。「同化」概念の多義性に留意しつつ、教育会を抗争の舞台ととらえることにより、太田が、「大和化」には回収されない「文明化」の回路を提示し、「沖縄人」意識の存立基盤を提供したことを明らかにした。
著者
河原 国男
出版者
日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.77, no.3, pp.255-270, 2010

本稿はマックス・ヴェーバー(1864-1920)の1919年の論文「職業としての政治」を、第一次大戦敗北にともなう君主制崩壊後の指導者不在に対応して、自国の民主的な政治指導者をいかに形成するかという政治教育の課題を思想的に受けとめたテクストとして検討した。その結果、社会的現場での、「カリスマ的教育」に相当する苛酷な「修練」に耐えることを通じ、政治上の理念を政治指導者たるべき者がみずからの追随者に対し不断に「実証」して指導者選抜を図りつつ、自己自身を内面的に支配するのみならず、行為結果や環境との関連で客観的に自己対象化するという主体形成の思想が摘出できた。こうして政治家としての指導者諸資質を意図して形成することを求めるヴェーバー政治教育思想は、等しく民主主義の理念に導かれつつも同時代の公民教育とは異なった思想的可能性を示していた。
著者
南 相瓔
出版者
日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.58, no.2, pp.p121-131, 1991-06

金沢大学大学院人間社会研究域経済学経営学系
著者
河原 国男
出版者
日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.69, no.1, pp.147-155, 2002-03

本稿はヴェーバーの「比較宗教社会学」のなかの中国儒教論をとり上げ、ピューリタン的合理主義(現世支配的合理主義)と儒教的合理主義(現世適応的合理主義)との比較を通じて、それぞれに基づく教育観の特質を明らかにし、その上で、この二つの類型を封建日本論と関連づけながら、ヴェーバーによるこの合理主義の対比が同じく儒教の展開した日本近世の教育思想史にどのような教育上の見通しを提起するものであったかを考察した。その結果、つぎのことが仮説として明らかになった。1)たしかに日本近世儒教の教育理念には、客観的で非人格的な(没我的)性格(即事性)の使命(日常的課題)を有するピューリタン的合理主義から隔てられるという仮説が成り立つ部分がある。二つの点がある。第一に前者の場合、非客観性(「非即事性」)として特徴づけられ、情誼的な所与の人間関係、とくに「孝」を枢要徳とする「人間関係優先主義」ではないか。第二に封建社会の倫理として、「騎士的人間形成」を目標としている前者は「人格的なもの」の崇拝として特徴づけられるのではないか。こうした点で、日本儒教は、中国儒教の特質と接近する。2)しかし、他方では、封建日本の倫理が、中国儒教と違って、プロテスタンティズムの現世支配的合理主義と類似するという仮説も、同時に成り立っていた。二つの点がある。第一に、封建日本の枢要徳が、個人的自発性(覚悟・決断)に根ざして、封臣の主君に対する忠誠を重んじていること、第二に、「貴族主義」に通ずる「距離感と品位」の貴族的感覚を育むとともに、動物的衝動性に対する自己規律としても特徴づけられる、「遊技」を重んじていることである。こうした諸特性は、禁欲的プロテスタンティズムの自己支配と共通していた。ここにヴェーバーの論説から導かれる上の推測から、一つの問いを提示することができる。いったい日本近世の思想史において、実質的に人間形成の思想はどのような内容を示したか。要するに、a)現世支配的な合理主義が展開したのか、それともb)現世適応的な合理主義が展開したのか、このような合理主義の両概念は根本的な教育態度と緊密に結びついていた。前者は人間形成における「即事性」主義で、後者は「人間関係主義」である。どちらの教育的合理主義がその思想史において優勢だったか。このような問いをわれわれは「ヴェーバー問題」の一つとして特徴づけることができる。この問いは、日本の精神的な近代化の見地から重要である。a)のケースとして荻生徂徠、b)のケースとして徂徠以後の朱子学、を想定することができるだろう。
著者
渡部 昭男
出版者
日本教育学会
雑誌
日本教育学会第77回大会
巻号頁・発行日
2018-09-01 (Released:2018-10-03)

日本教育学会第77回大会 公開シンポジウムⅡ 「子どもの貧困」と教育学研究の課題 日時:2018年9月1日(土) 場所:宮城教育大学