- 著者
-
洞ヶ瀬 真人
- 出版者
- 名古屋大学
- 雑誌
- 挑戦的萌芽研究
- 巻号頁・発行日
- 2016-04-01
まず60年代初頭から中期のドキュメンタリー表現の分析を、放送史のなかでテレビの位置づけが高まった60年安保闘争時のテレビドキュメンタリーを軸に行った。特にこれを、当時問題視された、学生らの闘争映像が視聴者を扇動する可能性に関しての論争や、海外のドキュメンタリーで類似した問題に着目するJ・ゲインズの議論に照らし合わせて考察。その結果、安保時のドキュメンタリーが目指していたものが、視聴者の情動的扇動を目論む映像の政治利用ではなく、デモ衝突などの出来事を政治的立場に関わらず配信し、意見や判断を視聴者に促す映像表現を通して民主的な政治意識を向上させることだったということが見えてきた。この姿勢は、60年代中頃のドキュメンタリーにも広く共通しており、安保闘争時の映像表現が、その後の方向性に大きな影響を与えていたことが分かる。第二に、60年代後半のドキュメンタリー表現を考察するための分析対象として、安保闘争以上に複雑な政治対立を抱えた水俣病について、熊本放送が制作した60年代末から70年代のテレビ作品に着目した。その映像は、インタヴュー音声と映像が複雑に組み合わさる表現や、作り手たちの意見対立を孕んだ議論が作品メッセージを攪乱する表現など、非常に複雑化している。これをF・ガタリなどのエコロジー批評の議論と照らし合わせて分析することで、一見、被害者救済のメッセージを犠牲にしているかのような作品の表現が、加害企業の労使問題に揺れる市民の意識と水俣病被害者との齟齬を抱えた社会環境や、テレビ放送という幅広い人々との問題共有を目指すメディア環境と密接に結びついたものだったことを明らかにした。分析した作品は、政治対立から目を背けずに、政治的立場を超えた視聴者への働きかけを実現している。その取り組みには、政治問題自体に及び腰な現代のメディアでも役立つ、ドキュメンタリーの方法論を見出すことができる。