著者
福地 佳代子 濱田 淑子
出版者
東北福祉大学
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 = Tohoku Fukushi University Serizawa Keisuke Art and Craft Museum annual report
巻号頁・発行日
vol.3, pp.67-84, 2012-06-23

昭和35(1960)年6月22日〜12月12日にかけて朝日新聞に連載された佐藤春夫の小説「極楽から来た」で、芹沢銈介は挿絵を型絵染の技法で表現するという初の試みに挑戦した。新聞連載「極楽から来た」は好評を博し、翌年2月に単行本が刊行、7月には挿絵のみを独立させた芹沢銈介作「極楽から来た挿絵集」が頒布されたが、その都度一部の挿絵には改変が加えられた。「極楽から来た」の制作において、芹沢と佐藤との間をとりもった明石・無量光寺の住職小川龍彦師は、連載の開始前から終了後まで、約130通の書簡を芹沢に送っており、その中には佐藤春夫の意向を受けた改変依頼をはじめ、図様の誤りや出版社による掲載順の間違いなど、重要な指摘がある。小川師書簡の精査を通して、「極楽から来た」制作のいきさつと、芹沢の試行の跡をたどる。
著者
福地 佳代子 濱田 淑子
出版者
東北福祉大学
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 = Tohoku Fukushi University Serizawa Keisuke Art and Craft Museum annual report
巻号頁・発行日
vol.3, pp.67-84, 2012-06-23

昭和35(1960)年6月22日〜12月12日にかけて朝日新聞に連載された佐藤春夫の小説「極楽から来た」で、芹沢銈介は挿絵を型絵染の技法で表現するという初の試みに挑戦した。新聞連載「極楽から来た」は好評を博し、翌年2月に単行本が刊行、7月には挿絵のみを独立させた芹沢銈介作「極楽から来た挿絵集」が頒布されたが、その都度一部の挿絵には改変が加えられた。「極楽から来た」の制作において、芹沢と佐藤との間をとりもった明石・無量光寺の住職小川龍彦師は、連載の開始前から終了後まで、約130通の書簡を芹沢に送っており、その中には佐藤春夫の意向を受けた改変依頼をはじめ、図様の誤りや出版社による掲載順の間違いなど、重要な指摘がある。小川師書簡の精査を通して、「極楽から来た」制作のいきさつと、芹沢の試行の跡をたどる。"Gokuraku Kara Kita "by Sato Haruo was originally serialized in the Asahi Shinbun newspaper between June 22 and December12,1960, with 173 illustrations by Serizawa Keisuke. This was the first time, Serizawa had created newspaper illustrations usinga stencil-dyeing on paper process. The series proved very popular, and many readers took note of Serizawa's illustrations. Whenthe series came out in book form, in May 1961, Serizawa designed the cover. Then in July 1961, he independently republishedhis 173 dramatic, stencil dyed illustrations with hand-painted details. In developing a new project, illustrations are often changed.For the project that they undertook for the Asahi Shinbun newspapaer, Ogawa Tatsuhiko corresponded with Sato and Serizawa.The 130 letters which Ogawa wrote to Serizawa yield important insight into this process. For example, Sato's desire to modifyillustrations, errors in the figures, printing mistakes by the publishing company, etc. Examining Ogawa's letters in detail, we hopeto better understand the circumstances involved in producing "Gokuraku Kara Kita " and gain insight into Serizawa's process oftrial and error.
著者
濱田 淑子 本田 秋子
出版者
東北福祉大学
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 = Tohoku Fukushi University Serizawa Keisuke Art and Craft Museum annual report (ISSN:21862699)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.63-70, 2013-06-23

人間の形をしたジャイナ教の宇宙像をローカ・プルシャと呼ぶ。考えうる限りの全世界と全時間を含み、世界の霊魂は上方世界、中央世界、下方世界の三界に住み分け、輪廻していると考える。最上位にあるのが完成者で上方世界は天上界である。下方には地獄界がある。中央には人間が住む円盤状の地上界がある。取り上げた資料はインド・ラジャスタン州かグジャラート付近で、17 世紀に制作されたものと考えられ、木綿地に顔料で描かれた掛け絵である。しかも、他に比べて大きく絵画的であり、サンスクリット語の詳細な説明書きが付されていて、きわめて貴重で、興味深い資料といえる。 The diagram of Loka-Purusa is a representation of the triple world, in the form of cosmic man. Interestingly, the diagram depicts the immense potential, no less than the size of the cosmos, contained within man. The ascending planes of experience are called lokas, while the descending are known as talas. In the center of these planes is the Earth-plane (madhya-loka)," shown as a circle. The complete drama of the universe is displayed here. This wall hanging from the museum's collection was painted on cotton in the 17th century in Gujarat or Rajasthan, India. Larger and more pictorial than others, it is a valuable and interesting artifact with detailed Sanskrit letters.
著者
濱田 淑子
出版者
東北福祉大学
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 = Tohoku Fukushi University Serizawa Keisuke Art and Craft Museum annual report (ISSN:21862699)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.91-96, 2010-06-23

19世紀半ばに、アイヌ集落に天然痘が流行し多くのアイヌの人々が亡くなった。その状況を憂えた箱館奉行の村垣範正は、江戸幕府に医師派遣を要請した。医師の桑田立斎が選ばれ、江戸を出発してから1カ月で箱館に到着、1857年に世界で初めての集団強制種痘をアイヌ6,000余人に実施した。その顛末を商人の杉浦嘉七がアイヌ風俗画家・平澤屏山に描かせ、村垣家に献上した。立斎は1859年に原本をもとに模写を作らせて家蔵本とし、さらにこの模写本をもとに1941年に林司馬が模写をした2点が作られたが、肝心の原本の所在が長く不明であった。この絵は日本の医学史上、行政支配上記念すべき記録画とされているが、当館所蔵の平澤屏山筆「種痘施行図」が1857年に描かれた当初の原本と考える。 The Ainu people suffered from smallpox in the mid-nineteenth century. Muragaki Norimasa of the Hakodate magistrate`s office called on the government in Edo to send a doctor. Dr. Kuwata Ryusai went to Hakodate and compelled 6,000 Ainu people in allto be vaccinated. A merchant. Sugiura Kashichi had Hirasawa Byozan paint the scene and presented the picture to Muragaki Norimasa. Dr. Kuwata made a copy from the original painting by Hirasawa Byozan for his family in 1859. In 1941, a descendant had two copies painted by Hayashi Shime. This scroll is an important painting from the point of view of medical history and the administrative control.The original picture's where about had long been unknown. I believe that the scroll owened by Tohoku Fukushi University Serizawa Keisuke Art and Craft Museum may be the original.
著者
福地 佳代子 濱田 淑子
出版者
東北福祉大学
雑誌
東北福祉大学芹沢[ケイ]介美術工芸館年報
巻号頁・発行日
vol.3, pp.67-84, 2011

昭和35(1960)年6月22日〜12月12日にかけて朝日新聞に連載された佐藤春夫の小説「極楽から来た」で、芹沢[ケイ]介は挿絵を型絵染の技法で表現するという初の試みに挑戦した。新聞連載「極楽から来た」は好評を博し、翌年2月に単行本が刊行、7月には挿絵のみを独立させた芹沢[ケイ]介作「極楽から来た挿絵集」が頒布されたが、その都度一部の挿絵には改変が加えられた。「極楽から来た」の制作において、芹沢と佐藤との間をとりもった明石・無量光寺の住職小川龍彦師は、連載の開始前から終了後まで、約130通の書簡を芹沢に送っており、その中には佐藤春夫の意向を受けた改変依頼をはじめ、図様の誤りや出版社による掲載順の間違いなど、重要な指摘がある。小川師書簡の精査を通して、「極楽から来た」制作のいきさつと、芹沢の試行の跡をたどる。
著者
濱田 淑子 本田 秋子
出版者
東北福祉大学
雑誌
東北福祉大学芹沢[ケイ]介美術工芸館年報
巻号頁・発行日
vol.4, pp.[59]-[59], 2012

人間の形をしたジャイナ教の宇宙像をローカ・プルシャと呼ぶ。考えうる限りの全世界と全時間を含み、世界の霊魂は上方世界、中央世界、下方世界の三界に住み分け、輪廻していると考える。最上位にあるのが完成者で上方世界は天上界である。下方には地獄界がある。中央には人間が住む円盤状の地上界がある。取り上げた資料はインド・ラジャスタン州かグジャラート付近で、17 世紀に制作されたものと考えられ、木綿地に顔料で描かれた掛け絵である。しかも、他に比べて大きく絵画的であり、サンスクリット語の詳細な説明書きが付されていて、きわめて貴重で、興味深い資料といえる。