著者
梶原 洋
出版者
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 (ISSN:21862699)
巻号頁・発行日
no.12, pp.43-50, 2021-06-23

1933 年に伊東信雄により樺太で発見された2 領のアイヌ鎧は、主としてその構造が古墳時代の挂甲に類似していることから、平安初期(9 世紀)の所産と推定されていた。しかし、11 から12 世紀に生まれ、鎌倉時代以降に盛んに用いられた「腹巻鎧」との構造的な類似性をもつと推定される。そして、鎧自体の特徴は、北東アジアのチュクチ族などの前合わせ式鎧と共通していて、その伝統に倣った上で、日本式鎧の縄目縅、菱縫などの製作技法を取り入れて作られた可能性が高い。また、サハリンに残されたアイヌ鎧に見られる巴文が、南北朝以降の型式であり、新たに確認された松皮菱文は、武田氏に関連することから、15世紀に蠣崎氏(武田氏)を中心とした道南の和人勢力とアイヌ民族との間で繰り広げられた戦いとの強い関連も推定される。したがって、この鎧は、平安時代9 世紀の所産ではなく、室町時代の15 世紀頃に奥州以北などで製作され、サハリン(樺太)にまでもたらされたとの説明が最も有力となり、従来の年代感は訂正されなくてはならないだろう。
著者
梶原 洋
出版者
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 (ISSN:21862699)
巻号頁・発行日
no.12, pp.43-50, 2021-06-23

1933 年に伊東信雄により樺太で発見された2 領のアイヌ鎧は、主としてその構造が古墳時代の挂甲に類似していることから、平安初期(9 世紀)の所産と推定されていた。しかし、11 から12 世紀に生まれ、鎌倉時代以降に盛んに用いられた「腹巻鎧」との構造的な類似性をもつと推定される。そして、鎧自体の特徴は、北東アジアのチュクチ族などの前合わせ式鎧と共通していて、その伝統に倣った上で、日本式鎧の縄目縅、菱縫などの製作技法を取り入れて作られた可能性が高い。また、サハリンに残されたアイヌ鎧に見られる巴文が、南北朝以降の型式であり、新たに確認された松皮菱文は、武田氏に関連することから、15世紀に蠣崎氏(武田氏)を中心とした道南の和人勢力とアイヌ民族との間で繰り広げられた戦いとの強い関連も推定される。したがって、この鎧は、平安時代9 世紀の所産ではなく、室町時代の15 世紀頃に奥州以北などで製作され、サハリン(樺太)にまでもたらされたとの説明が最も有力となり、従来の年代感は訂正されなくてはならないだろう。
著者
鍛代 敏雄
出版者
東北福祉大学
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 (ISSN:21862699)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.61-70, 2018-06-23

本稿の課題は、鎌倉期にはじまる石清水八幡宮寺祠官の印章に関する調査・研究の成果を報告するところにある。石清水八幡宮の印章に関するまとまった研究はない。そこで、本文では、別当・社務検校を務める祠官の私印について、あらためて検証した。とくに鎌倉期に確かめられる、幸清・宗清・耀清の3者の印章に関し、その形態、使用法、機能の3点を中心に論述した。なかでも、耀清の印章は、斯界においてほとんど知られていなかったが、国立歴史民俗博物館所蔵の国宝『宋版史記』の所蔵者であったことをはじめて発見した。その書誌学史上の意義は少なくないものと考える。なお、筆者は石清水八幡宮研究所主任研究員を兼任しており、本稿については、かかる調査・研究の成果の一部である。また、本学の博物館学芸員資格にかかわる単位取得履修講座・古文書学の授業を担当している。その概論のなかで、花押や印章の講義を行っている。今後の古文書学の授業に反映させていく所存である。This issues paper is to report the results of the investigation and research on the seal of the Iwashimizu- hachimangu (石清水八幡宮)shrine Temple the Shikan starts in the Kamakura(鎌倉)period. No large study on the sigil of the Iwashimizu-hachimangu shrine. So, about my impression of the Shikan(祠官)in the body, serve as intendant, Bettou (別当)and Kengyo(検校)again verified. Concerning the seal of kousei(幸清), sousei(宗清) and yousei(耀清), seen especially during the Kamakura, was discussed focusing on the forms, how to use, features three. The Shi ji(史記) was printed during the Song(宋)dynasty in China, in the collection of the treasures of the National History Museum of folkways, yousei sigil is little known in the field, but for the first time found. The significance of the bibliographical history no less considered. The Iwashimizu-hachimangu shrine Research Institute, and serves as this part of the results of such research and studies on paper. Also, are responsible for class credits course course concerning the qualification of Museum curator and Paleography. In its introduction, teaches kaou (花押) and seal(insyou 印章). On teaching of Paleography in the future to reflect.
著者
鍛代 敏雄
出版者
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 (ISSN:21862699)
巻号頁・発行日
no.12, pp.51-69, 2021-06-23

本稿は、国指定重要文化財「石清水八幡宮文書」の中の未刊史料「當宮縁事抄」について、影印を掲出し、既刊史料と未刊史料の対照をおこない、主に史料の現状、形態、伝来、文書内容に関し、書誌学的な解説を付して、その重要性を論説するものである。本史料の調査・研究によって、石清水八幡宮所蔵史料の新たな史料情報を斯界に提供するとともに、古文書学・文化財学・博物館学・アーカイブズ学などの諸分野にかかわる基盤研究を報告し、これら諸学を総合した協働研究の一助にしたいと考えている。とくに博物館資料論の研究を進展させるために、また古文書学の観点からも、あらためて問題提起するものである。あわせて、本学の学芸員資格における担当講座の充実をはかっていきたいとおもう。
著者
鍛代 敏雄
出版者
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 (ISSN:21862699)
巻号頁・発行日
no.13, pp.59-73, 2022-06-23

現在、国指定重要文化財「石清水八幡宮文書」の基幹史料となっている「田中家文書」は、戦国時代、石清水八幡宮社務検校の 田中奏清によって修理されていた。その修理記録の調査・研究に基づいて、修理・校訂・編修の方法や目的、その意識や思想について、はじめて考察した論考である。 本稿の成果を基盤にして、中世文書のアーカイブズ学(記録情報史料学および古文書保存管理学)の観点から、文化財学・古文書学・博物館資料論などを再構築しながら、学芸員資格課程の講義に活用していきたいと考えている。
著者
鍛代 敏雄
出版者
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 (ISSN:21862699)
巻号頁・発行日
no.11, pp.49-62, 2020-06-23

本稿は、福島県いわき市に鎮座する飯野八幡宮の宮司家・飯野氏に相伝された中世の古文書を読み解いて、石清水八幡宮の所領・好嶋庄(主に西方)について再検証を試みる基礎的な考察である。 本文書は福島県いわき市などの自治体史をはじめ、はやくから注目されてきたところの東北地域を代表する中世文書群であり、現在では重要文化財に指定されている。本文で述べるように、文書目録も整備されている。ところが、岩清水八幡宮の荘園史にかんする研究の立ち遅れもあって、本書の岩清水側からアプローチした研究がなされてこなかった。 そこで、新しい史料情報を提供するために、石清水八幡宮研究の観点から、「飯野家文書」を再検討することにした。その結果、従来の目録中に所載された石清水八幡宮関係文書14点を抽出し、文書内容の調査・研究に基づいて、文書名を修正し、新たな史料的価値を見出すことができた。 Writing reads and unties the medieval ancient document which was forwarded to Iino family of the Iino Hachimangu chief priest of a Shinto shrine work enshrined in Iwaki-shi, Fukushima, and is the basic consideration which tries reinspection about a domain in Iwashimizu hachimangu shrine and yoshimanoshou (mainly, the west). It's the medieval documentary crowd who represents the northeast area you have just done empty attention of fast including autonomous body history in Fukushima-ken and Iwaki-shi, and it's designated as an important cultural asset present. A documentary catalog is also maintained so that it may be told by a body. But, there was also lagging of a study about manor history in Iwashimizu hachimangu shrine, and the discussion I approached from the Iwashimizu side of Honjo was performed, and I did. So I decided to reconsider "Iino family document" from the angle of the Iwashimizu hachimangu shirine study to offer new information of historical sources. In the result and whole conventional inventory, shosai, 14 Iwashimizu hachimangu shirine related documents were picked out and a documentary name was corrected based on an investigation of document content and a study. and it was possible to find the new historical sources-like value. I'd like to utilize in a charge lecture of the paleography concerned with curator qualification acquisition about these outcomes.
著者
鍛代 敏雄
出版者
東北福祉大学
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 (ISSN:21862699)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.61-70, 2018-06-23

本稿の課題は、鎌倉期にはじまる石清水八幡宮寺祠官の印章に関する調査・研究の成果を報告するところにある。石清水八幡宮の印章に関するまとまった研究はない。そこで、本文では、別当・社務検校を務める祠官の私印について、あらためて検証した。とくに鎌倉期に確かめられる、幸清・宗清・耀清の3者の印章に関し、その形態、使用法、機能の3点を中心に論述した。なかでも、耀清の印章は、斯界においてほとんど知られていなかったが、国立歴史民俗博物館所蔵の国宝『宋版史記』の所蔵者であったことをはじめて発見した。その書誌学史上の意義は少なくないものと考える。なお、筆者は石清水八幡宮研究所主任研究員を兼任しており、本稿については、かかる調査・研究の成果の一部である。また、本学の博物館学芸員資格にかかわる単位取得履修講座・古文書学の授業を担当している。その概論のなかで、花押や印章の講義を行っている。今後の古文書学の授業に反映させていく所存である。This issues paper is to report the results of the investigation and research on the seal of the Iwashimizu- hachimangu (石清水八幡宮)shrine Temple the Shikan starts in the Kamakura(鎌倉)period. No large study on the sigil of the Iwashimizu-hachimangu shrine. So, about my impression of the Shikan(祠官)in the body, serve as intendant, Bettou (別当)and Kengyo(検校)again verified. Concerning the seal of kousei(幸清), sousei(宗清) and yousei(耀清), seen especially during the Kamakura, was discussed focusing on the forms, how to use, features three. The Shi ji(史記) was printed during the Song(宋)dynasty in China, in the collection of the treasures of the National History Museum of folkways, yousei sigil is little known in the field, but for the first time found. The significance of the bibliographical history no less considered. The Iwashimizu-hachimangu shrine Research Institute, and serves as this part of the results of such research and studies on paper. Also, are responsible for class credits course course concerning the qualification of Museum curator and Paleography. In its introduction, teaches kaou (花押) and seal(insyou 印章). On teaching of Paleography in the future to reflect.
著者
門脇 佳代子
出版者
東北福祉大学
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 = Tohoku Fukushi University Serizawa Keisuke Art and Craft Museum annual report (ISSN:21862699)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.63-74, 2016-06-23

静岡市立芹沢銈介美術館所蔵「中尊寺参詣曼荼羅二曲屏風」は、岩手県平泉地方の寺社と、そこを参詣する人々の賑わいを描いた絵画である。類例として岩手県中尊寺に伝来する「平泉諸寺参詣曼陀羅図」が知られており、天正元(1573)年に回禄した毛越寺や観自在王院の堂塔を再建するため制作された可能性が高いと考えられている。本稿では、描写および構図の比較を通して、この二作品が同一の工房で制作されたこと、また「平泉諸寺参詣曼荼羅図」が先行して描かれ、後に平泉古図などの影響も受けつつ「中尊寺参詣曼荼羅二曲屏風」が描かれたことを指摘する。Chuson-ji Sankei Mandara is a painting owned by the Shizuoka City Serizawa Keisuke Art Museum. It depicts temples of the Hiraizumi district and visitors to their grounds. Interestingly, another painting connected with Chuson-ji, known as Hiraizumi-shoji Sankei Mandarazu, is thought to have been produced to aid in rebuilding a temple building destroyed by fire in 1573.Comparing these two works, I found that both paintings were produced in the same studio, and that Chuson-ji Sankei Mandara was drawn after Hiraizumi-shoji Sankei Mandarazu.
著者
鍛代 敏雄
出版者
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 (ISSN:21862699)
巻号頁・発行日
no.11, pp.49-62, 2020-06-23

本稿は、福島県いわき市に鎮座する飯野八幡宮の宮司家・飯野氏に相伝された中世の古文書を読み解いて、石清水八幡宮の所領・好嶋庄(主に西方)について再検証を試みる基礎的な考察である。 本文書は福島県いわき市などの自治体史をはじめ、はやくから注目されてきたところの東北地域を代表する中世文書群であり、現在では重要文化財に指定されている。本文で述べるように、文書目録も整備されている。ところが、岩清水八幡宮の荘園史にかんする研究の立ち遅れもあって、本書の岩清水側からアプローチした研究がなされてこなかった。 そこで、新しい史料情報を提供するために、石清水八幡宮研究の観点から、「飯野家文書」を再検討することにした。その結果、従来の目録中に所載された石清水八幡宮関係文書14点を抽出し、文書内容の調査・研究に基づいて、文書名を修正し、新たな史料的価値を見出すことができた。 Writing reads and unties the medieval ancient document which was forwarded to Iino family of the Iino Hachimangu chief priest of a Shinto shrine work enshrined in Iwaki-shi, Fukushima, and is the basic consideration which tries reinspection about a domain in Iwashimizu hachimangu shrine and yoshimanoshou (mainly, the west). It's the medieval documentary crowd who represents the northeast area you have just done empty attention of fast including autonomous body history in Fukushima-ken and Iwaki-shi, and it's designated as an important cultural asset present. A documentary catalog is also maintained so that it may be told by a body. But, there was also lagging of a study about manor history in Iwashimizu hachimangu shrine, and the discussion I approached from the Iwashimizu side of Honjo was performed, and I did. So I decided to reconsider "Iino family document" from the angle of the Iwashimizu hachimangu shirine study to offer new information of historical sources. In the result and whole conventional inventory, shosai, 14 Iwashimizu hachimangu shirine related documents were picked out and a documentary name was corrected based on an investigation of document content and a study. and it was possible to find the new historical sources-like value. I'd like to utilize in a charge lecture of the paleography concerned with curator qualification acquisition about these outcomes.
著者
梶原 洋
出版者
東北福祉大学
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 = Tohoku Fukushi University Serizawa Keisuke Art and Craft Museum annual report (ISSN:21862699)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.57-80, 2010-06-23

小札は、アッシリアに始まり、内陸アジアを通して東西に広がった。本論では、ユーラシアに分布する小札について、アルファベットや記号、数字を用いて簡単に小札の縅孔、綴孔などの配置を表現し、それに基づいてA-Hの形式分類と細分を行った。小札鎧は、ユーラシア全体の分布をみると、内陸アジアを中心に西はヨーロッパから東は日本まで分布している(表1)。編年的には、5-6世紀を中心に古くは紀元前から新しくは19世紀まで用いられたことが分かる。(表2)。日本列島における小札鎧もユーラシアに広範に分布する小札鎧文化伝統の最東端に位置するものである。鎧文化における大陸との関係は、古代ばかりでなく中世もしくは近代にまで続き、大鎧の成立や北海道、樺太のアイヌ民族の鎧の存在にも大きな影響を与えたことが考えられる。 Lamellar armor, constructed of hundreds of small rectangular lamellae of wood, hide, bone, antler, bronze, or iron, has been widely used across Eurasia, from Europe to Japan. Rectangular lamellae with holes for lacing one to another with straps or cordsf irst appeared in Assyria in the eighth or seventh century B.C., then spread through central Asia to Siberia, Mongolia, China,Korea and finally Japan in the fifth century A.D.
著者
鍛代 敏雄
出版者
東北福祉大学
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 (ISSN:21862699)
巻号頁・発行日
no.10, pp.43-52, 2019-06-23

本研究資料は、世界遺産「平泉」関連資産の柳之御所遺跡から出土した折敷墨書について、原本調査の実施を踏まえた報告である。平成2年(1990)年度の第28次発掘調査において発見された当該の折敷は、年輪年代測定法によって、1158年+x年と推定された。陶器の様式編年にもとづく年代比定では、12世紀第3四半期との指摘が有力である。奥州藤原3台秀衡の盛期にあたり、柳之御所遺跡を平泉館と考える根拠の一つともなる重要な文字史料である。 このような貴重な出土遺物である折敷墨書に関し、あらためて実際に原資料を調査・分析し、これまでの読み方を修正し、なお墨書の内容を検討した結果、新しい事実を再発見することができた。そこで、ここに私見をもって報告する次第である。 すなわち、従来「人々給絹日記」とされてきた表題を、「下賜給絹日記」と改訂し、この日記の成立経緯とその意味、とくに下賜された装束の儀礼的な意義について、秀衡の嫡男・泰衡の身分上の位置づけに着目しながら論述した。 なお、本学において筆者が担当する授業「文化財概論」および「古文書学概論」「古文書学各論」「古文書学実習」は、学芸員取得のための単位履修にかかわる専門科目である。本報告は、柳之御所遺跡出土の折敷墨書を読み直した資料紹介だが、文化財や古文書の重要性を語る上で、実践研究の成果として参看されるべきものと考える。 This research material introduction is a report based on implementation of the original investigation about the tray table writing in ink unearthed from Yanaginogosyo court remains of the world's cultural and natural heritage "Hiraizumi" related legacy. A drawing tray table where the degree of 1990 was found in research excavation the 28th was estimated by an annual ring dating way at +x year in 1158. Comment with the third quarter in the 12th century is strong by comparative identification the age based on the annual style volume of the pottery. Oshu Fujiwara is the valuable character historical sources all one of the bases which regard 3 generations of Yanaginogosyo court remains as Hiraizumi house in case of Hidehira's active period will be. It was possible to find new fact investigating and analyzing field historical sources actually once more about the tray table writing in ink which are such valuable unearthing relics, and correcting the former way to read, and as a result of further considering the contents of writing in ink. So the order which will be reported with a private view here. Or the title made "the people salary silk diary" in the past was revised with "the bestowal salary silk diary", and it was stated while aiming at placing on the status of Hidehira's legitimete son and Yasuhira about the formation longitude and latitude of this diary, its meaning and the ceremonious signification of the attire bestowed in particular. Further, the class "cultural asset outline" and "paleography outline" "paleography itemized discussion" of which a writer takes charge in the science "paleography training" are the special subject concerned with unit taking for curator qualification acquisition. This report is the material introduction which reread tray table writing in ink of Yanaginogosyo court remains unearting, but when telling the importance of the cultural asset and the ancient document, I think it should be referred to as an outcome of action-training-research.
著者
門脇 佳代子
出版者
東北福祉大学
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 = Tohoku Fukushi University Serizawa Keisuke Art Craft Museum annual report (ISSN:21862699)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.61-74, 2017-06-23

芹沢銈介の「布文字」と呼ばれる一群の作品は、翻る長い布が文字へと変化する独創的な表現で、昭和35(1960)年より盛んに作られた。布文字が登場する昭和30年代は、人間国宝となった芹沢が旺盛に作家活動を行った時期であり、他に飛白体を想起させる「福の字」(昭和33(1958)年)や「梵字愛染明王」(昭和34(1959)年)が制作されている。「梵字愛染明王」が初めて出品されたのは、昭和34年2月24日~3月1日にかけて開催された第1回无文会展であり、同年2月14日に柳宗悦へ宛てたハガキの中で制作中の作品として取り上げている。また同年5月11~17日に開催された柳宗悦先生書軸展では、柳の書の下絵を担当しており、その図柄のいくつかに梵字を取り入れている。東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館には、芹沢の練習とみられるカスレ描きの習作や梵字下絵が残されており、それらを含め発表作品を時系列に並べてみると、芹沢銈介の布文字成立には、飛白体や梵字の習得が前提にあったことがより明確になる。Serizawa Keisuke produced "cloth character" designs in which Chinese characters are depicted as long cloths, arranged to form the figures. From 1960, he created many such works, which were prized for their originality of expression. Two roughly contemporaneous works were his "Chinese character fuku"(1958)and "Sanskrit Aizen Myouou"(1959), both clearly showing his interest in characters.Serizawa wrote in a letter dated February 14, 1959 of his plans to create "Sanskrit Aizen Myouou." Sanskrit characters bear a resemblance to Serizawa's. Tohoku Fukushi University's Serizawa Keisuke Art and Craft Museum holds Serizawa's studies(pictures of Sanskrit characters drawn for practice). Comparing his "Sanskrit Aizen Myouou" and "cloth characters", it becomes clear that Serizawa's "cloth characters" developed out of his work with Sanskrit characters.
著者
奈良 綾
出版者
東北福祉大学
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 = Tohoku Fukushi University Serizawa Keisuke Art and Craft Museum annual report (ISSN:21862699)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.75-86, 2011-06-23

東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館には、型絵染の人間国宝・芹沢銈介の作品と、芹沢が収集した世界各国の工芸品が所蔵されている。芹沢は、様々な国々の民族が生活の中で用いていた工芸品のコレクターでもあり、その内容はアフリカの仮面・扉等の木工品や土器・土偶、中南米・東南アジア・インドの染織品や装身具など多岐にわたる。中には、絞り・型染・筒描・絣などの技法を用いた衣裳や裂など、日本の藍染織品も含まれており、「被衣」と呼ばれる着物形態の被りものが存在する。この資料に関して詳細があまり知られていないことが契機となり、調査を開始し現在に至っている。 平安末期、都で用いられ始めた被衣は、後に風習として日本各地へと広がっていく。その長く続く系譜の中で、他地域への影響を及ぼしたという点で注目されるべきは、江戸・京都における慣習といえるだろう。当館の被衣資料の蒐集地・山形県における被衣を調査するにあたり、関わりの深い2都市の慣習を知る事がまず前提となる。そこで、今回は地域を江戸・京都に限り、文献史料と現存資料を提示して探る。 There are thousands of works by Serizawa Keisuke and a thousand of his collections of folk crafts from around the world in Serizawa Keisuke Art and Craft Museum at Tohoku Fukushi University. He was designated as a Holder of an Important Intangible Cultural Property, or Living National Treasure, for his stencil dyeing technique in 1956. He was also a great collector of crafts that people from various ethnic groups or countries actually had used in their real life, ranging from African primitive arts such as wooden masks and doors and earthen vessels and figures to Incan and Asian textiles, ornaments, and folk arts and crafts.Japanese indigo-dyeing textiles are included in those collections. I've been doing research into kimono-shaped veil known as Katsugi (literally, lady's veils), which belongs to this group of Japanese costumes and cloth made by using indigo dyeing, techniques like tie-dyeing, stencil dyeing, tsutsugaki (paste resist indigo dyeing) and ikat. I started doing research on Katsugi because it has not been generally known or examined in details. Katsugi began to be used in ancient cities at the end of the Heian Period and gradually spread across Japan as a clothing custom. In its long-running development, we may say that the Katsugi customs were well-established especially at Edo and Kyoto.Our museum has collected Katsugi found in Yamagata Prefecture. But first of all, I would like to present the literete data of Edo and Kyoto, and analyze them in this article. In next paper, I am going to present the data of Katsugi in Yamagata and compare them to the customs in Edo and Kyoto.
著者
下山 忍
出版者
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 (ISSN:21862699)
巻号頁・発行日
no.12, pp.27-42, 2021-06-23

東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館は183点のアイヌ関係資料、そのうち絵画を17点所蔵している。本稿ではその中の「アイヌ人物屏風」と「種痘施行図」の教材化に向けての情報の整理と活用の提案を行った。すなわち、「アイヌ人物屏風」は、歴史教材としてよく知られている「夷酋列像」との関連性が高く、その虚構性に気付かせ考察させる上で有効な教材である。一方、「種痘施行図」は、18世紀後半のロシアの南下に対応する「蝦夷地幕領化」の時期における「撫育政策」の好適な資料であり、例えば新科目「歴史総合」において、国民国家の形成を考察させる上で「問いを表現する」学習活動などにも活用できる教材である。いずれも学習指導要領等が求めるアイヌの教材化の視点にも合致している資料となりうることを確認できる。
著者
濱田 淑子 本田 秋子
出版者
東北福祉大学
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 = Tohoku Fukushi University Serizawa Keisuke Art and Craft Museum annual report (ISSN:21862699)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.63-70, 2013-06-23

人間の形をしたジャイナ教の宇宙像をローカ・プルシャと呼ぶ。考えうる限りの全世界と全時間を含み、世界の霊魂は上方世界、中央世界、下方世界の三界に住み分け、輪廻していると考える。最上位にあるのが完成者で上方世界は天上界である。下方には地獄界がある。中央には人間が住む円盤状の地上界がある。取り上げた資料はインド・ラジャスタン州かグジャラート付近で、17 世紀に制作されたものと考えられ、木綿地に顔料で描かれた掛け絵である。しかも、他に比べて大きく絵画的であり、サンスクリット語の詳細な説明書きが付されていて、きわめて貴重で、興味深い資料といえる。 The diagram of Loka-Purusa is a representation of the triple world, in the form of cosmic man. Interestingly, the diagram depicts the immense potential, no less than the size of the cosmos, contained within man. The ascending planes of experience are called lokas, while the descending are known as talas. In the center of these planes is the Earth-plane (madhya-loka)," shown as a circle. The complete drama of the universe is displayed here. This wall hanging from the museum's collection was painted on cotton in the 17th century in Gujarat or Rajasthan, India. Larger and more pictorial than others, it is a valuable and interesting artifact with detailed Sanskrit letters.
著者
濱田 淑子
出版者
東北福祉大学
雑誌
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報 = Tohoku Fukushi University Serizawa Keisuke Art and Craft Museum annual report (ISSN:21862699)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.91-96, 2010-06-23

19世紀半ばに、アイヌ集落に天然痘が流行し多くのアイヌの人々が亡くなった。その状況を憂えた箱館奉行の村垣範正は、江戸幕府に医師派遣を要請した。医師の桑田立斎が選ばれ、江戸を出発してから1カ月で箱館に到着、1857年に世界で初めての集団強制種痘をアイヌ6,000余人に実施した。その顛末を商人の杉浦嘉七がアイヌ風俗画家・平澤屏山に描かせ、村垣家に献上した。立斎は1859年に原本をもとに模写を作らせて家蔵本とし、さらにこの模写本をもとに1941年に林司馬が模写をした2点が作られたが、肝心の原本の所在が長く不明であった。この絵は日本の医学史上、行政支配上記念すべき記録画とされているが、当館所蔵の平澤屏山筆「種痘施行図」が1857年に描かれた当初の原本と考える。 The Ainu people suffered from smallpox in the mid-nineteenth century. Muragaki Norimasa of the Hakodate magistrate`s office called on the government in Edo to send a doctor. Dr. Kuwata Ryusai went to Hakodate and compelled 6,000 Ainu people in allto be vaccinated. A merchant. Sugiura Kashichi had Hirasawa Byozan paint the scene and presented the picture to Muragaki Norimasa. Dr. Kuwata made a copy from the original painting by Hirasawa Byozan for his family in 1859. In 1941, a descendant had two copies painted by Hayashi Shime. This scroll is an important painting from the point of view of medical history and the administrative control.The original picture's where about had long been unknown. I believe that the scroll owened by Tohoku Fukushi University Serizawa Keisuke Art and Craft Museum may be the original.