著者
牛見 真博
出版者
山口大学大学院東アジア研究科
雑誌
東アジア研究 (ISSN:13479415)
巻号頁・発行日
no.18, pp.374-361, 2020-03

従来、近世における一人称代名詞「僕」の使用について言及している研究は、その用例の検討も含めて限られているのが現状である。その中で、近代以前における一人称代名詞「僕」の自覚的な使用は、幕末に始まるものとして捉えられてきた観があり、その傍証として長州藩の吉田松陰による「僕」の多用が指摘されている。しかしながら、そうした「僕」の自覚的な使用は、さらに百年以上を遡り、すでに江戸中期の長州藩の山県周南の用例に見られる。山県周南(一六八七─一七五二)は、十九歳で江戸の荻生徂徠に入門して古文辞学を修め、徂徠門下では最も早い時期からその薫陶を受けた。帰郷後は、長州藩校明倫館の創設時から深く関わり、徂徠が樹立した学問体系である徂徠学を藩校での教学に導入し第二代学頭を務めるなど、その継承と喧伝に努めた。その後、百二十年以上の長きにわたり、長州藩の学問・教育は徂徠学の影響のもとで展開されるに至っている。 本稿では周南による三三の用例の全てを掲げ、「僕」がどのような使用をみているか、主だった特徴について検討し、次のことを指摘した。一人称代名詞としての「僕」は司馬遷『史記』を初出とし、周南は自ら藩の修史にも携わる歴史重視の姿勢と司馬遷への私淑から、『史記』に見られる「僕」の語を使用するようになった。また、『漢書』司馬遷伝における「僕」の多用に影響を受けたものと考えられる。周南による「僕」の使用は、謙遜の意と相手への高い敬意を旨としており、これは、「僕」は対等・目下の相手に使われたという先行研究とは明らかに異なるものである。一方、松陰による「僕」の多用は、藩内教学の祖である山県周南による使用に想を得ながらも、自らを他者に劣る存在であることを強調して表現したものである。松陰は「僕」を、内心を自由に吐露するのに相応しい語として自覚的に用いている。以上のように、松陰における「僕」の使用の内実も、対等・目下の相手に使用するという従来の見解とは異なることを指摘した。
著者
牛見 真博
出版者
大島商船高等専門学校
雑誌
独立行政法人国立高等専門学校機構大島商船高等専門学校紀要 国立高等専門学校機構大島商船高等専門学校 編 (ISSN:18814891)
巻号頁・発行日
no.51, pp.31-40, 2018-12

Kozo WATANABE was born in Hagi, Choshu Domain (present day, Hagi City, Yamaguchi Prefecture). He attended Shoka Sonjuku (a private school run by Shoin YOSHIDA) in 1856 to study under the principal's supervision at the age of 15 years old. He studied naval architecture in the United States and the United Kingdom inspired by the principal (Shoin YOSHIDA) at the end of the Edo period. After returning to Japan, he entered the Ministry of Engineering of the Meiji government and acted as the second dock-master of the Nagasaki shipyard. Furthermore, he made an effort for the construction of Tategami dock which was admired as the most advanced dock in Asia. These great achievements led him to be called the pioneer of the modern shipbuilding industry. I'd like to the explanation until his sunset from studying abroad.
著者
牛見 真博
出版者
大島商船高等専門学校
雑誌
独立行政法人国立高等専門学校機構大島商船高等専門学校紀要 国立高等専門学校機構大島商船高等専門学校 編 (ISSN:18814891)
巻号頁・発行日
no.51, pp.19-30, 2018-12

Kozo WATANABE was born in Hagi, Choshu Domain (present day, Hagi City, Yamaguchi Prefecture). He attended Shoka Sonjuku (a private school run by Shoin YOSHIDA) in 1856 to study under the principal's supervision at the age of 15 years old. He studied naval architecture in the United States and the United Kingdom inspired by the principal (Shoin YOSHIDA) at the end of the Edo period. After returning to Japan, he entered the Ministry of Engineering of the Meiji government and acted as the second dock-master of the Nagasaki shipyard. Furthermore, he made an effort for the construction of Tategami dock which was admired as the most advanced dock in Asia. These great achievements led him to be called the pioneer of the modern shipbuilding industry. However, preceding studies have given us only snippets of information about him, and neither a detailed causal relationship nor events associated with him have been described. Thus, his biography is reorganized based on the influence of the maritime intention in the Choshu Domain.
著者
牛見 真博
出版者
日本道徳教育学会
雑誌
道徳と教育 (ISSN:02887797)
巻号頁・発行日
vol.336, pp.53, 2018 (Released:2020-08-01)

幕末の吉田松陰(1830-1859)は「狂」の思想を重んじた。「狂」は、もとは孔子が説いた儒家の概念で、志が高く進取の気性を有することを言い、孔子の後継者を自任する孟子も好んで用いている。松陰は、「狂」を原動力として、目の前の国難に対し、天子や藩主への忠誠心、愛国心を重んじ、徹底的なナショナリズムを貫こうとした。そして、この「狂」によって、最終的には自身が重んじ、儒家の最も基本的な道徳観の一つである「孝」までも否定するに至っている。本稿は、そうした松陰の原動力である「狂」の思想と実践について、彼が兵学者として社会に立脚していたことに基づくものであることを指摘する。また、松陰の「狂」を考えることは、一般的な道徳的イメージだけでは捉えきれない松陰の人物像の一端を浮かび上がらせることにもつながるであろう。