著者
田北 廣道
出版者
九州大学経済学会
雑誌
経済学研究 (ISSN:0022975X)
巻号頁・発行日
vol.78, no.5, pp.17-58, 2012-03

ドイツ化学工業が19世紀後半から合成染料を足場に急成長をとげ、20世紀初頭に世界市場を席巻したことは、周知の通りである(Andersen,1996:加来,1986)。その間、製品開発を通じた高い内部蓄積、国際的な販売戦略の展開、職員・労働者の階層的組織の形成、科学技術的な研究成果の生産への応用などを梃子にして、先端産業の一つとして寡占的大企業の成立をみている(Pohl,1983)。そのような飛躍的発展の一大画期は、1880年代以降の「生産の科学化」(Andersen,1990,p.163) の時期のことだった。しかし、以上のような短期間での化学工業の急成長は、自由な市場条件のもとで進展したわけではない。1845年プロイセン政府は、火災・煤煙・悪臭・騒音など住民に大きな不利益・危険・迷惑を与える恐れのある業種に対して、事前営業認可の取得を義務づけたが、「あらゆる種類の化学工場」は、初めからその対象に挙げられていた(Gs,1845,p.46)。この営業認可制度が化学工業にとって「目の上のコブ」的存在だったことは、1878年創立の「ドイツ化学産業利益擁護連盟」(以下、化学連盟と略す)の機関誌を一瞥するとき直ちに明らかとなる。1881年化学連盟会長のヴェンツェルが総会で行った演説を挙げておこう。「新規の発明の場合、その成功は工場主による(新製品の)可及的速やかな市場供給に依存しているので、ドイツ産業にとって最適な経済局面は失われてしまう。なぜなら、ドイツ流の認可手続きに無縁なイギリス人が、競争相手として常に大きく先行することになるからである」(CI,4,p.330)と、国際競争力の低下を招きかねない元凶とさえ見なされている。その後、化学連盟は「営業条例」・「執行規則」の改正を重要な行動目標の一つに掲げ、帝国宰相・参議院宛てに繰り返し嘆願を行った(Henneking,1994,pp.122-125:Vossen,1907)。ただ、その目標到達までの道のりは平坦ではなかった。特に、認可審査手続きが時間を要しただけでなく、企業家の認可申請を契機として「環境闘争」が頻発し、その前に大きく立ちふさがったからである。その意味から、住民からの抵抗排除は、後発国ドイツの急速な工業化過程を「社会全体の産業化」の観点から考察した技術史家、G.バイエールの表現を借りて言えば、確実に「大工業への序曲」の一齣をなしていたのである(Bayerl,1994:田北,2003,pp.47‒48)。ところで、筆者は、デュッセルドルフ行政管区にある化学企業の認可申請を契機に発生した「環境闘争」の時代的変化を追究することで、認可制度における「大工業への序曲」の諸相の析出を試みてきた。その際、闘争の成否というより、認可制度の性格規定をめぐる相対立する所説――「住民保護」(Mieck,1967,p.69)か「産業保護」(Brüggemeier,1996,pp.130‒132:Henneking,1994,p.79)か――を念頭に置きながら、特に利害当事者である諸主体(企業家、中央政府・自治体、住民、専門家)の織りなす関係の変化を、1845-1909年の法制度や経済的・政治的影響力の変化と関連づけながら考察してきた。この「ゲーム・ルール」は、帝国・自治体レベルの法から、実際の認可審査のあり方(審査担当者と審査手続き)、そして審査結果を左右する要因として「住民の証言」(現地状況と自治体の影響力)と科学技術的鑑定の重みまで含んでいる(田北,2010)。なお、これまで研究対象に据えたのは、都市バルメンに本拠を置いていた化学企業である。なかでも、1875年まではバルメンに、そしてそれ以降は順次デュッセルドルフに経営の重心を移したイエガー染料会社を考察の基軸とした(Carl,1926:田北,2008,2009,2010a,2011a)。ただ、このイエガー染料会社に関しては、主要な対象に選択した研究史的理由、企業のプロフィル、および主要な工場の配置の3点につき別の機会に詳しく論じたことがあるので、そちらを参照願いたい(田北,2010a,pp.75‒76)。この場では、「40年間に13度の認可申請を行い、その全てで抵抗を受けた唯一の企業」(Henneking,1994,p.393)と呼ばれたように、1860年前半から20世紀初頭まで認可闘争に関わる史料が多数伝来して、環境闘争の変化を追及する上で絶好の条件を備えていることを再確認しておきたい。また、1845年「営業条例」導入直後に発生した認可闘争の特質をみるために、ヴェーゼンフェルト化学工場を取り上げた(田北,2011b)。さらに、イエガー会社をめぐる闘争にあって比較的史料伝来の手薄な1880年代をカバーする意味から、ヘルベルツ会社とダール会社を取り上げた(田北,2011c)。認可制度を捉えた大きな地殻変動の具体相をより的確に把握できると、考えたからである。最後に、本論の論述手順について一言しておきたい。Iでは、1872-75年イエガー闘争の経緯を伝来史料とともに概観する。その際、「鑑定書・診断書と証人尋問記録」を主たる史料基盤に据えた別稿との関係を明らかにしつつ論じていく。IIでは、認可闘争に関係する諸主体の作成した文書を中心に検討して、それぞれの主張とその拠り所となった法制的・社会経済的なゲーム・ルールを浮き彫りにしつつ、闘争の進行を辿る。結びでは、1880年代と20世紀初頭の闘争と比較しながら検討結果の総括をはかる。
著者
田北 廣道
出版者
九州大学経済学会
雑誌
経済学研究 (ISSN:0022975X)
巻号頁・発行日
vol.79, no.1, pp.39-65, 2012-06

A.ヴェルトは、都市法獲得100周年を記念した1908年の『バルメン市史』のなかに「上級市長ブレット(1817 1895年) のもとのバルメン」と題する一節を設けて、その市政に最大級の賛辞を贈った。「都市の急速な発展の時期に都市行政の仕事が、次のような人物の掌中にあったことは、大きな幸運であった。すなわち、豊かな学識と天分により、その職務遂行に当たり際だって有能だっただけでなく、生まれ故郷である都市の繁栄のために全力を尽くすことを、名誉ある義務と感じていたからでもある」(Werth, 1908, p. 60)。同じく、200周年記念の文献を上梓したH.J.ブルイン=オウボーターも、「ヨーロッパの最も富裕で最も重要な工場都市の一つ:1850‒1883年バルメン」と題する章において上級市長 ブレットの長期市政に高い評価を与えている(Bruyn-Ouboter, 2009, p.105)。ところで、ヴェルトは、上級市長ブレットの市政(1855年10月~1862年、1868年4月~79年10月)^<2)>が、第一級の賞賛に値する理由を、次のような事績を挙げて説明している(Werth, 1908, pp.61‒69)。政治・行政の分野では、1857年5月隣接のエルバーフェルトと同格の上級市長職の資格取得と、1860年エルバーフェルト郡からの自立を、そして教育の分野では、国民学校と上級学校の整備と実務教育に力点を置く実業学校と工芸協会の設立とを挙げる。また、都市の社会問題にも積極的な取り組みを見せた。都市財政支出による救貧施設や孤児院の建設、あるいは労働者保護のための「社会連合」の結成が、その代表例である^<3)>。さらに、工業化の進展に伴う人口急膨張に応じて、都市財政を投入して給付行政(Reulecke, 2001:馬場, 2000, 2002) にも力を注いだ。市有ガス工場の増設、市立病院の拡充、乗り合い馬車や鉄道馬車に代表される近距離交通の整備、それと併せて都市美化協会を通じた公共建築の近代化や公園整備も手がけている^<4)>。これら先行研究が見落としているブレットの功績の一つが、「環境派」市長の立場から住民の健康・財産保護のために取り組んだ精力的な活動である。もちろん、ヴェルトが市史を書いていたとき、環境問題など頭をよぎったはずはないが、それが見落とされたのには、それなりの理由がある。この場では、そのような見落としを生み出した事情として、一対の誤解を挙げたい。一方で、前任の上級市長も、洗礼名(名) は不明だが、同じブレットであったこと知られており、アウグスト・ブレットと同一人物との誤解が生じたことである。上級市長ブレットの名は、1863年6月11日上級市長から国王政府に送付された書簡から読み取れる(RD, 24645, pp.7‒7r)。他方で、この前任者は、「厚顔無恥な企業家」(Radkau, 1997/99, p.369) のレッテルを貼られたイエガー染料会社を積極的に支援して、環境派にはほど遠く、むしろ開発派の代表者に数え上げられる人物だったからである(Henneking, 1994, p.212)^<5)>。しかし、それは丁度A.ブレットが、上級市長を離れていた時期に当たっている。環境派としての基本姿勢は、同じイエガー会社をめぐって1872‒75年に発生した認可闘争から、明瞭に読み取れる(田北, 2010a, 2012)。1874年3月には市議会に特別委員会を設置し反対派住民と連携して経営拡張反対のキャンペーンを展開し、75年11月以降その主力工場のデュッセルドルフ移転を余儀なくしている。詳細は別稿に譲るが、74年1月19日にデュッセルドルフ国王政府宛てに送付された書簡は、熱気溢れる表現で上級市長ブレットの不退転の決意を伝えている。「あらゆる産業施設の中で化学工場は、大衆にとって最大の迷惑をもたらしており、よしんば最も厳格な条件が設定された場合でも、その遵守状況を継続的に行政的な統制下に置くことは不可能である。従って、近隣住民に不十分な保護しか与えられないことは、経験に裏打ちされた事実である。このような状況に鑑みるとき、署名した当局者(ブレット) は、新規に建設される化学工場をできるだけ都市から遠ざけるだけでなく、都市内にある既に認可を受けたその種の施設についても、可能であれば、財政支出を惜しまず全力を挙げて排除したり、経営拡張(計画) に強く抵抗したりすることが、義務だと考えている」(RD, 24645, pp.233‒233r)。その背景には、この時期の人口急膨張と無計画な建設ラッシュによる公衆衛生状態の極度な悪化があった。工場と家庭からの廃棄物による飲料水汚染と下痢などの疾患の蔓延は、乳幼児を中心とした死亡率を1880年には最悪の水準まで押し上げており、その対策が焦眉の急となっていたからである(Bruyn-Ouboter, 2009, pp.101‒102)。しかし、ブレットの環境派市長としての活動は、1872年以降に始まったわけではない。イエガー会社は、「40年間に13度認可申請を行い、その全てで抵抗を招いた唯一の企業」(Henneking, 1994, p.393) と呼ばれたように、1863年アニリン染料生産に関する最初の認可申請時から市議会を含む住民多数の反発を呼んでいた(田北, 2009, pp.48‒49)。しかも、1864年1月の認可取得後も平然と社会ルールを無視して危険・迷惑の垂れ流しを続け、住民多数の反感を買っていた。そのような被害拡大に拍車をかけたのが、住民からの異議申し立ての機会を奪う結果をもたらした、公示免除手続きであった。1861年改訂版「営業条例」によって導入された、この手続きについてはⅠで立ち返るが、前任市長の後押しもあって相次いで採用された6)。ただ、認可申請書の審査を通じて公示免除手続きの採否を検討する郡医師・郡建築官は、必ずしも、その採用に賛同していたわけではない。例えば、1865年11月6日郡建築官は「企業家の煩雑さを軽減するために、初めから危険なしと判定されないように」(op. cit., p.52r) と意見を述べたが、受け入れられなかった(田北, 2009, pp.60‒61)。郡医師・郡建築官は、ブレットの市長就任を待望していたのである。この点は、上級市長再任直前の68年4月2日に郡医師が送付した書簡から鮮明に読み取れる。「バルメン上級市長に対し、確信を持って回答します。一般に化学工場が周辺住民に与える大きな迷惑を考慮するとき、その種の工場の拡張は、事前の(計画) 公示なしに行ってならないというのが、私の意見です」(RD, 24645, p.57r)。この環境派の上級市長ブレットの再任直後に発生した、ヴェーゼンフェルト化学会社をめぐる1869‒73年「環境闘争」を考察することが、本論の課題となる。なお、接近方法の点では、関係主体(企業家、中央政府・国王政府、市当局、住民) 間の関係の変化を、ゲーム・ルールとなる法制度や経済政治的な影響力と関連づけながら追究する「政策主体」アプローチを踏襲している(田北 2010)7)。最後に、考察手順について一言しておく。Ⅰでは、伝来史料を概観し、これまで検討した「環境闘争」との相違点を明らかにする。Ⅱでは、環境闘争を前半(1869年1月~70年8月) と後半(1872年11月~73年6月) に分けて考察し、公衆衛生悪化の元凶の一つである「産業廃棄物」処理をめぐる闘争の諸相と行方を探る。結びでは、バルメンないしデュッセルドルフを舞台に相前後する時期に発生した環境闘争と比較しつつ、検討結果を総括する。その際、「営業条例」の性格規定をめぐり、「住民保護」(Mieck, 1967, p.69)か「産業保護」(Brüggemeier, 1996, pp.130‒132:Henneking, 1994, p.79) かを争点にして闘わされている論争も、念頭に置いていることを付言しておく。
著者
田北 廣道
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2010

本研究では、ドイツ化学工業を舞台とした認可闘争において参加主体とゲーム・ルールの双方で1880年代が一大分岐点をなすことを明らかにし、Uekotter(2007)やBayerl(1994)が主張する「環境史の分水嶺としての第二帝政期」や「大工業の序曲」の所説を再確認した。主要な成果は、1)科学技術の素人集団である「地区委員会」が審査窓口となったこと、2)現地状況に代わり科学技術が審査基準となったこと、3)認可闘争は下火に向かったこと、の3点に要約できる。