著者
田村 航
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.127, no.11, pp.1-23, 2018 (Released:2019-11-20)

後花園天皇は崇光院流皇統(伏見宮)の出身ながら、断絶した後光厳院流皇統を猶子相続したため、どちらの皇統の継承者なのかという点で見解が分かれている。この問題を解明するにあたり、鍵となる伏見宮貞成親王(後崇光院)の尊号宣下についても、後花園と貞成の続柄や、貞成の尊号辞退をめぐり、検討する余地が残されている。そこで本稿では同時期の政治状況を見据えつつ、これらの問題をあきらかにしていきたい。 永享五年(一四三三)、後花園は義父の後小松院が死没したさいに後光厳院流の継承者と再確認されたものの、生家の崇光院流との関係を絶ち切れず、文安四年(一四四七)の貞成親王の尊号宣下を「厳親」としておこなうのか、それとも「傍親」としておこなうのかが問題となった。結局、後花園は貞成の尊号宣下を「傍親」すなわち兄としておこない、自らが後光厳院流の継承者であることを明示した。これは康正二年(一四五六)の貞成の葬礼でも変わらなかったので、貞成の尊号宣下は後花園の皇統を決した節目と見なせる。また貞成は尊号辞退の報書を提出し、とくに慰留された形跡はないが、依然上皇として天皇・室町殿と並びたつ位地にあった。 このように後光厳院流の後花園天皇と崇光院流の上皇の貞成が並存する、一見矛盾した措置がとられたのは、後花園の実父として貞成への尊号宣下をしてはならないという後小松院の遺詔と、足利義教が貞成を後花園の実父と遇してきた政治路線との妥結による。この結果、伏見宮は当主が代々後光厳院流の天皇の猶子として親王位につきつつ、崇光院流の上皇たる貞成にもつらなる世襲親王家として皇位継承権を担保され、後花園は後光厳院流の系譜上の断絶を回避しつつ、崇光院流(伏見宮)の温存をも果たし、前世紀以来の両皇統の争いを終息させ、その融和と両立を実現させたのである。
著者
田村 航
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.127, no.11, pp.1-23, 2018

後花園天皇は崇光院流皇統(伏見宮)の出身ながら、断絶した後光厳院流皇統を猶子相続したため、どちらの皇統の継承者なのかという点で見解が分かれている。この問題を解明するにあたり、鍵となる伏見宮貞成親王(後崇光院)の尊号宣下についても、後花園と貞成の続柄や、貞成の尊号辞退をめぐり、検討する余地が残されている。そこで本稿では同時期の政治状況を見据えつつ、これらの問題をあきらかにしていきたい。<br>永享五年(一四三三)、後花園は義父の後小松院が死没したさいに後光厳院流の継承者と再確認されたものの、生家の崇光院流との関係を絶ち切れず、文安四年(一四四七)の貞成親王の尊号宣下を「厳親」としておこなうのか、それとも「傍親」としておこなうのかが問題となった。結局、後花園は貞成の尊号宣下を「傍親」すなわち兄としておこない、自らが後光厳院流の継承者であることを明示した。これは康正二年(一四五六)の貞成の葬礼でも変わらなかったので、貞成の尊号宣下は後花園の皇統を決した節目と見なせる。また貞成は尊号辞退の報書を提出し、とくに慰留された形跡はないが、依然上皇として天皇・室町殿と並びたつ位地にあった。<br>このように後光厳院流の後花園天皇と崇光院流の上皇の貞成が並存する、一見矛盾した措置がとられたのは、後花園の実父として貞成への尊号宣下をしてはならないという後小松院の遺詔と、足利義教が貞成を後花園の実父と遇してきた政治路線との妥結による。この結果、伏見宮は当主が代々後光厳院流の天皇の猶子として親王位につきつつ、崇光院流の上皇たる貞成にもつらなる世襲親王家として皇位継承権を担保され、後花園は後光厳院流の系譜上の断絶を回避しつつ、崇光院流(伏見宮)の温存をも果たし、前世紀以来の両皇統の争いを終息させ、その融和と両立を実現させたのである。
著者
田村 航
出版者
吉川弘文館
雑誌
日本歴史 (ISSN:03869164)
巻号頁・発行日
no.818, pp.17-30, 2016-07