著者
中村 敏秀 相澤 哲 Toshihide NAKAMURA Satoshi AIZAWA
出版者
長崎国際大学
雑誌
長崎国際大学論叢 = Nagasaki International University Review (ISSN:13464094)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.179-186, 2006-01

日本のソーシャルワーク教育は多くの課題を抱えている。本稿では特にソーシャルワークとケアワークについての関係の明確化とソーシャルワーク実習教育の内容について論考した。そして、次のような結論を得た。ソーシャルワークとケアワークの定義は統合されるべきである。教育はこれを前提に行われるべきである。またソーシャルワーク実習教育は実習時間を大幅に増やすことと、実習指導者の資格認定が必要である。その結果、大学等での社会福祉教育はより実践的なものになろう。
著者
相澤 哲
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.17, pp.85-100, 1996

特定の諸関係の中で、個人がある属性を持つところの主体として構成される過程、即ち「主体化」が、M ・フーコーの仕事における一貫した主題であったことは、今日ではよく知られている。さて、しかし、なぜ「主体」でなく「主体化」なのか? 「主体」になる前の「個人」とは、いかなるものか?本稿前半部では、まず、主体を何らかの操作の結果として、フーコーが扱い続けた理由を、彼の特異な思考の前提を明示することにより、確認する。その前提とは、次のものである。①主体の属性は、特定の実践上の技法の効果として生じる。②個人の〈内に〉複数の諸力が存在する。即ち、個人自体が、既に統治されねばならない複合的・政治的現象である。以上の議論を踏まえ、後半部では、「道徳的主体化の様式」に関する、フーコーの晩年の仕事が持つ意味について、考察する。重要なポイントは、フーコーが、①普遍的規範こそ道徳的主体性の基盤である、とする、西欧哲学において支配的な信念を問い直していること、②普遍的規範への要請・信頼を、特定の道徳的主体化の様式の採用に随伴するものとして、捉えていること、である。結論。もしも我々に共通に与えられているものがあるとすれば、それは、複数の諸力の中で、自らを何らかの実践によって統御せねばならない、という課題であり、規範は、そのための方法でしかない。規範の力でなく、規範を自らにあてがおうとする力の方が本源的なのだ。