- 著者
-
福田 豊彦
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.84, pp.135-162, 2000-03-31
中世の東国には、鉄の加工に関する断片的な史料はあっても、鉄の生産(製錬)を示す証拠はなく、そこには学問的な混乱も認められる。しかし古代に関しては、律令・格式や風土記・和名類聚抄などを始め、鉄の生産と利用に関する文字史料は少なくないし、考古学的な遺跡と出土遺物にも恵まれている。そして何よりも、鉄生産では既に永い歴史をもつ大陸の状況を参考にすることができる。一方、近世になると、中国山地と奥羽山地の鉄山師の記録を始め、直接的な鉄生産の記録も少なくないし、流通・加工の関係史料にも恵まれ、本草家などの辞典的な記述も残されている。中世でも西日本に関しては、断片的ではあるが荘園関係史料によって生産と流通の大要を把握できるし、近年は考古学的に確実な生産遺跡も発掘され、文書史料との関係も推察されるようになってきた。しかし東国に関しては、鉄の生産方法を示す史料もない。また考古学的な発掘遺跡にも確実なものはなく、鉄生産(鉄製錬)の遺跡か鋼精錬の遺跡かについて、その性格評価が分かれているものもある。そこで本稿では、資料的に豊かな近世史料によって、市場に流通していた鉄の名称と種別を調べ、その鉄の生産方法を検討し、それを過去に遡って中世の鉄の生産と加工技術を推定しようとした。その結果、次の諸点をおおよそ明らかにできた。① 市場に流通した鉄の種類に関しては、近世の前期と後期で多少の変化が認められるが、炭素量の多い鋳物用の「銑(せん)」と、炭素量のごく少ない「熟鉄(じゆくてつ)」が基本であった。刃物生産に使われる「釼(はがね)」が、商品として市場に流通するのは江戸時代も後期以降のようで、中世の釼製造技術は、当時の刃物鍛冶の職掌に属していたものと推察される。② 近世後期、宝暦年間と伝えられる大銅(おおどう)の発明以後には、直接製鋼を主とするいわゆる「鉧(けら)押技法」が登場するが、それ以前は銑鉄生産を主とする技法が主流で、わが国でも二段階製鋼法が一般的に行われていた。③ しかし『和漢三才図会』や『箋注倭妙類聚抄』の記述によると、この銑鉄生産の技法では、銑鉄の他に熟鉄が生産され、これが「鉧(けら)」と呼ばれていた。以上のような近世初期の鉄の生産と流通・加工の方式は、中世にもほぼ適用できるであろう。