著者
童門 冬二
出版者
日経BP社
雑誌
日経ベンチャ- (ISSN:02896516)
巻号頁・発行日
no.253, pp.98-101, 2005-10

徳川秀忠が、大久保忠ただ隣ちかに命じて召集させた二代目大名の会「談判の会」は、早速、江戸城内で開かれた。秀忠はニコニコ笑いながら、趣旨を説明した。 「父、家康は、何かにつけて『貞観政要』という中国の古い帝王学の本を読んでおられた。
著者
童門 冬二
出版者
日経BP社
雑誌
日経ベンチャ- (ISSN:02896516)
巻号頁・発行日
no.252, pp.104-107, 2005-09

慶長八(一六〇三)年に征夷大将軍になった家康は、二年後の慶長十(一六〇五)年に、その職を息子の秀忠に譲った。これは家康が、秀忠の有能ぶりを認めたからではない。 家康にしてみれば、大坂城の豊臣家に対し、 「征夷大将軍職は今後、徳川家の世襲とする。絶対に豊臣家には政権を譲らない」 ということの宣言であった。
著者
童門 冬二
出版者
日経BP社
雑誌
日経ベンチャ- (ISSN:02896516)
巻号頁・発行日
no.261, pp.106-109, 2006-06

"幕府中興の祖"といわれた第八代将軍徳川吉宗の施政は、二面性を持っていた。ひとつは「幕威の回復と赤字財政の克服」であり、もうひとつはそのための「産業振興と国民の文化的向上を目的とする活発な輸入」だ。吉宗自身は別に矛盾を感じなかったが、実際にはこれがふたつの流れを生んだ。

1 0 0 0 隠密社員

著者
童門冬二 著
出版者
東都書房
巻号頁・発行日
1963
著者
童門 冬二
出版者
日経BP社
雑誌
日経ベンチャ- (ISSN:02896516)
巻号頁・発行日
no.234, pp.130-133, 2004-03

表裏というのは「表と裏・言行不一致・嘘や偽り・裏切者」の意味があり、比興は「面白いこと・不都合なこと・卑しいこと」とある。この二つの言葉を合わせた表現はもちろん、褒め言葉ではない。むしろけなす言葉だ。今風に言えば、 「真田昌幸は、いつも人を裏切る卑しい男だ」 ということになる。 ところが、当の昌幸は、こうした評価など気にも留めなかった。
著者
童門 冬二
出版者
日経BP社 ; 1985-
雑誌
日経マネー (ISSN:09119361)
巻号頁・発行日
no.378, pp.116-118, 2014-02

26作家童門冬二 氏Fuyuji Domon1927年東京都生まれ、86歳。47年東京都入庁。30歳代で芥川賞候補になるが落選、筆を折り、都庁勤務に専念する。67年に誕生した美濃部亮吉・都知事のブレーンに。79年に美濃部都知事の退任を機に退庁。50歳を過ぎて作家活動に専念。
著者
童門 冬二
出版者
日経BP社
雑誌
日経ベンチャ- (ISSN:02896516)
巻号頁・発行日
no.241, pp.120-123, 2004-10

豊臣秀吉は関白太政大臣にのし上がると、京に聚楽第を建てた。大坂城のイメージが強いせいか、後世の人々は、聚楽第を豪華な別宅のように思いがちだが、そうではない。秀吉にすれば、 「ここは、庶民出身の天下人が作った新しい政治の中心なのだ」 と、全国に向かって表明したという意味を持つ。 それまで、朝廷の最高幹部は、すべて御所の中に勤務場所を持っていた。
著者
童門 冬二
出版者
日経BP社
雑誌
日経ベンチャ- (ISSN:02896516)
巻号頁・発行日
no.231, pp.114-117, 2003-12

呆気にとられる家臣に対して、黄門様がテレビドラマでお馴染みの高笑いをしたかどうかまでは、記録に残っていない。 実際に、領主としての光圀は、収穫高を農民の自己申告に任せ、そのデータを元に年貢を決めるシステムを導入している。農民達から歓迎されたのは言うまでもない。
著者
童門 冬二
出版者
日経BP社
雑誌
日経ベンチャ- (ISSN:02896516)
巻号頁・発行日
no.259, pp.102-105, 2006-04

徳川第八代将軍吉宗の政治は"享保の改革と呼ばれ、そのスケールの大きさや施策のきめの細かさで後世の模範となった。そのため、かれは「幕府中興ちゅうこうの祖」ともいわれた。 当時の各大名家も、藩政改革をおこなったが、そのほとんどが手本としたのが吉宗の改革だ。米沢の名君上杉鷹山ようざんの改革の中にも吉宗の精神がかなりとりこまれていると思う。
著者
童門 冬二
出版者
日経BP社
雑誌
日経ベンチャ- (ISSN:02896516)
巻号頁・発行日
no.248, pp.94-97, 2005-05

"黄門様"と呼ばれた水戸徳川家二代目の藩主、光圀みつくには、奇抜な藩主人事を強行している。それは、讃岐(香川県)の松平家と、自らの水戸徳川家の「藩主交換」を行ったことだ。 最初は交換ではなく、 「水戸徳川家の相続人は、讃岐松平家から迎える」 というものだったが、アクシデントが起こって、結局は"交換"になった。

1 0 0 0 国僧日蓮

著者
童門冬二著
出版者
学習研究社
巻号頁・発行日
2000
著者
童門 冬二
出版者
日経BP社
雑誌
日経ベンチャ- (ISSN:02896516)
巻号頁・発行日
no.262, pp.88-91, 2006-07

徳川家康は本家の血が絶えたときの予防策として「御ご三さん家け(尾張・紀伊・水戸の三徳川家)」を創設した。八代将軍を選ぶときに尾張徳川家と紀伊徳川家が実に熾烈な争いをした。結局、紀伊徳川家が勝って、藩主だった徳川吉宗が八代将軍に就任した。