著者
笠井 昭次
出版者
慶應義塾大学
雑誌
三田商学研究 (ISSN:0544571X)
巻号頁・発行日
vol.40, no.6, pp.17-53, 1998-02-25

本論文は,現行会計の説明のための概念用具として今日もっとも優れていると思われる貨幣性資産・費用性資産分類論を取り上げ,その総合的な検討を企図している。本誌の第40巻第3号および第5号では,その意味論(計算対象論)の側面を検討したが,そこでは,計算対象を合理的に説明できなければならないという,勘定分類が充たすべき意味論上の要件をクリアーしていない,という結論が得られたのであった。本論文の企図は,総合的検討にあるので,本号では,その語用論(計算目的論)および狭義構文論(計算機構論)の側面を取り上げる。今日,勘定分類と言えば,一般に,測定規約を定めるために,会計の計算対象とのかかわりだけで論じられがちである。そして,貸借対照表・損益計算書における計算目的の遂行あるいは計算機構における諸勘定間の関係に関しては,別個の勘定分類が採用されるのが常である。筆者の言う勘定分類混在「観」が支配的なのである。しかし,会計理論を論理的に首尾一貫したひとつの全体とみるかぎり,ひとつの勘定分類によって,その領域の全体がカヴァーされなければならない。これが,筆者の依拠する統合的勘定分類観であるが,その場合には,貨幣性資産・費用性資産分類論は,その当初の企図が計算対象の把握にあったとしても,計算目的および計算機構を合理的に説明しているかどうか,ということも問われなければならないのである。まず語用論上の検討であるが,[G-W-G']に基づく貨幣性資産・費用性資産分類論は,貸借対照表の計算目的として損益計算を課しているので,第1にこの損益計算の成否を取り上げなければならない。しかし,[G-W-G']は,言うまでもなく借方項目だけであるから,どうしても貸方概念が必要になり,そうした損益計算という計算目的の視点から貸方概念が導入されることになる。したがって,第2にそうした導入の在り方の是非が問題になる。結論的には,この2点において,貨幣性資産・費用性資産分類論は,勘定分類が充たすべき,計算目的を合理的に説明すべきであるという語用論上の要件を充たしていない。次に狭義構文論上の検討であるが,ここでは,計算機構のうちもっとも重要である貸借対照表と損益計算書との関係を取り上げた。この関係については,両者の構成要素の関係,および両者の差額の関係の2点が問題になるが,貨幣性資産・費用性資産分類によれば,前者は交叉型関係,後者はカンヌキ関係になる。しかし,今日,実践的には,前者は,(例えば貸借対照表借方項目と損益計算書借方項目との同質性を意味する)直列型関係あるいは原価配分関係,そして後者は,損益計算書の利益額を貸借対照表の貸方側に移記する振替関係にある。したがって,貨幣性資産・費用性資産分類論は,勘定分類が充たすべき,計算機構を合理的に説明すべきという狭義構文論上の要件も充たしていない。かくして,貨幣性資産・費用性資産分類論は,総合的にみて,現行会計の説明に関する概念用具として妥当ではない,というのが本論文の結論である。
著者
笠井 昭次
出版者
慶應義塾大学出版会
雑誌
三田商学研究 (ISSN:0544571X)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.1-17, 2012-08

製品保証引当金につき, これまで, 負債性引当金説, 収益控除説, および前受金説を検討してきたが, 最後に, 収益費用観・資産負債観という二項対立によって, 諸処理方法を整理する松本[1993]の見解を検討することにしよう。 まず(1)および(2)において, 松本[1993]における収益費用観・資産負債観の定義的内容, および諸処理方法の収益費用観・資産負債観への帰属の論理を明らかにしよう。結論的には, その収益費用観と資産負債観とは, 主として, [費用─負債]というシェーマに準拠して, 費用が独立変数として負債を規定する収益費用観と, 負債が独立変数として費用を規定する資産負債観とが識別されている。 そこで, このような費用と負債との規定・被規定関係としての収益費用観・資産負債観を前提にして, 諸処理方法の収益費用観・資産負債観への帰属の論理の妥当性を(3)において, そして, 収益費用観・資産負債観という類別の枠組の妥当性を(4)で検討する。 ただし, 収益費用観・資産負債観という概念は, きわめて多様であり, 松本[1993]も, その例外ではない。そこで, 松本[1993]から明示的あるいは黙示的に区別できるみっつの収益費用観・資産負債観については, 次稿で取り上げることにする。論文
著者
笠井 昭次
出版者
慶應義塾大学
雑誌
三田商学研究 (ISSN:0544571X)
巻号頁・発行日
vol.36, no.5, pp.49-70, 1993-12-25

会計(学)と簿記(学)との関係と言えば,一見,過去のテーマのように思われるが,しかし,けっしてそうではない。簿記教育の側面および理論研究の側面のいずれにおいても,今日なお,重要な意義を帯びているのである。まず前者の簿記教育面であるが,今日にもなお,資本等式が生きていると主張されることがある。財産計算の体系である資本等式は,とうてい,損益計算にかかわる今日の複式簿記実践の説明理論たり得ない。それにもかかわらず,そうした主張がなされるというのは,損益計算体系性の説明ということより,むしろ貸借複記に基づく複式簿記の自己完結的な機構そのものの説明が主題になっていると考えざるを得ない。つまり,簿記学という感覚での教育がなされているのである。ここに,会計(学)と簿記(学)との関係が問題になるのである。次に理論研究面であるが,今日,複式簿記が軽視されているにもかかわらず,現実に取り上げられているのは,損益計算書・貸借対照表等の複式簿記により産出される情報だけなのである。そうであれば,複式簿記機構の特質を理解しないかぎり,損益計算書・貸借対照表等の特質も明らかにならないはずである。したがって,この複式簿記の意義を今日の会計学のなかに適切に位置づけることが,どうしても必要になる。本稿は,複式簿記をもって会計の構造とみる立場から,会計(学)と簿記(学)との関係を論じている。
著者
笠井 昭次
出版者
慶應義塾大学出版会
雑誌
三田商学研究 (ISSN:0544571X)
巻号頁・発行日
vol.48, no.4, pp.129-145, 2005-10

現行会計実践は,測定の側面からは,取得原価,時価,増価(いわゆる償却原価)の三者が,いわば等価的に存在する併存会計であるが,しかし,その会計実践の全体が,合理的に説明されているとは言い難い。もっとも,もっぱらFASB の動向あるいは国際的潮流に関心のある我が国においては,そうした説明理論の欠如は,さしたる問題ではないのかもしれない。しかし,確実な根拠の提示により社会的に貢献することが科学理論の役割と考えている筆者にとっては,そうした説明理論の欠如は,会計理論のレーゾンデートルにかかわる由々しい問題と言わなくてはならない。そこで,ここでは,会計実践の全体を首尾一貫した論理で説明する理論体系が我が国においては欠如している,ということの原因について考えることとしたい。もっとも,もっぱら投資家の意思決定への直接的な役立ちを重視する現状からすれば,そうした試みには,さしたる意義が認められないことが予想されるのであるが,会計理論のレーゾンデートルを,会計実践の全体に関する確かな知識体系の提示に求める筆者の視点からは,いささか迂遠のようではあるが,根本的に重要なことなのである。十全な説明理論が欠如していることの原因としては,私見では,伝統的会計理論(取得原価主義会計論)の問題点に関する究明の欠如,およびFASB などにより主張された収益費用観・資産負債観という二項対立の理論的根拠に関する究明の欠如,という2点が指摘されなければならない。まず前者であるが,今日,取得原価主義会計論の理論的欠陥の索出といった作業は,まったく試みられていない。そうした営みは,既に過去のものとなった会計学説の欠陥をほじくり返す,といった感覚でしか受け止められていないのではないだろうか。しかし,もし人間の営みを,何らかの意味での「進歩」という語によって語ることができるとするなら,現代会計理論は,取得原価主義会計論の欠陥を克服したものとして位置づけられるであろう。そうであれば,現行会計実践に関する十全な説明理論の構築のためには,取得原価主義会計論の理論的検討が不可欠なのである。このように理解するかぎり,そうした理論的検討の欠如が,現代会計理論の不振の一因となっていると言ってよいであろう。次に後者であるが,今日,周知のように,収益費用観と資産負債観との二項対立のもとで,さらには,収益費用観から資産負債観への転換という枠組によって,会計の変化を説明することが,流行現象になっている。その場合,収益費用観によればかくかくの処理になり,収益費用観によればしかじかの処理になる,といった議論が瀰漫している。収益費用観・資産負債観はそもそも理論的に成立し得るのか,といった議論を筆者は寡聞にして知らない。しかしながら,科学理論におけるすべての主張は,基本的にはひとつの仮説に他ならず,何らかの形で,その妥当性が議論されなくてはならない。つまり,誤りであるかもしれないという可能性が,常に意識されなければならないはずである。もし会計理論が1個の科学理論であるとするならば,収益費用観・帯資産負債観の妥当性に関する議論がなされていない現状は,奇異としか言いようがない。かねてから,そのような疑念を筆者は覚えていたが,そうした疑念は,FASB 学と化したかにみえる今日の会計学界においては,荒唐無稽なことのように感じられよう。しかし,本当にそうなのであろうか。そこで,貸倒損失を例にして,筆者の疑念の妥当性いかんを考えてみよう,というのが本稿の狙いである。すなわち,いわゆる取得原価主義会計においては,期末に貸倒引当金が計上されるのは,きわめて当然のこととみなされていたが,その感覚は,現行併存会計においても継承されている。しかしながら,最近,その点について疑義が提起されるようになった。そのこと自体は,好ましいことではあるが,問題は,そうした主張の具体的内容である。すなわち,そうした疑義にしても,取得原価主義会計に内在する理論的な欠陥を是正するという問題意識のもとに捉えられているのではない。むしろ,今日できあいの収益費用観と資産負債観という二項対立の妥当性を暗黙裡にせよ大前提に据えつつ,収益費用観から資産負債観への転換という論理に,依拠しているかに思われるのである。そこには,取得原価主義会計論という体系には,内在的な混乱があるかもしれない,といった問題意識,あるいは収益費用観・資産負債観という二項対立は,理論的に成立しないかもしれない,といった問題意識など,まったく感じられないのである。本号は,貸倒引当金計上との関係における取得原価主義会計論の内在的欠陥の問題を検討することとし,収益費用観と収益費用観との二項対立の問題については,次号で取り上げることとしたい。