著者
腮尾 尚子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.77, pp.101-139, 1999-03

十二支・十二支獣に関する俗信の一種に、江戸時代後期に盛んに行われた「七ツ目信仰」がある。これは、自己の生まれ年の十二支から七ツ目の十二支――子歳生まれなら午――の動物を絵像にしてまつると、幸運を授かる、という俗信である。この七ツ目信仰は、現在すっかり廃れ、そればかりか、かつて存在していたという事すら忘れられている状態である。このため、七ツ目信仰を題材とした江戸時代の文学・美術作品の解釈をするのに、支障が生じている程である。本稿では、江戸時代後期における七ツ目信仰の実態を、絵画資料も活用しつつ、紹介するという事に重点を置く。七ツ目の支獣は、一種の神であり、その加護を受けるために、前述の七ツ目獣の絵像の他、七ツ目獣をかたどった家具や小物なども用いられていた。当時、月日や方位を表す十二支についての吉凶説では、ある支とその七ツ目の支の組み合わせを、縁起の悪いものとして断じていた。七ツ目信仰は、このような吉凶説と根本的にくい違うものなので、人々の中には、なぜ七ツ目の獣を礼拝するのか納得のいかぬ者もいたようである。しかし、このような矛盾点を抱えていたにもかかわらず、七ツ目信仰は、特に安永・天明期を一つの山として流行した。七ツ目信仰が人気を集めた原因としては、時の人であった田沼意次が七ツ目獣を信仰していると噂されていた事が挙げられる。田沼家の紋は七星を表す[黒丸×7個の紋様]であるが、これが別名「七ツ梅(んめ)」と呼ばれており「七ツ目(め)」を人々に連想させ易い素地をもっていた。隆盛した七ツ目信仰の辺縁には、生年の支が七ツ違いである男女は相性がいいという俗説も新たに生まれた。七ツ目信仰は根拠不明の俗信にすぎないが、これがかつて社会現象ともいえる程のブームを形成した事を考えれば、文化史上、現状の如く看過ごされていてよいはずはない。"The Nanatsume" (the seventh) is a superstition related to the Chinese zodiac calendar proliferated at the end of Edo period. It says, the picture of the zodiac animal that signifies the seventh year from your own birth year will bring you a fortune. This nanatsume folk belief is totally obsolete and forgotten in our society today. This causes difficulties when researchers try to interpret the nanatsume-related literatures and arts created during the Edo period.This paper gives a review of the nanatsume belief at the end of the Edo period by using not only letters but also paintings and drawings. The zodiac animals of nanatsume are a kind of deities. To celebrate these sacred spirits, people decorated rooms in their house with drawings, furniture, and small amulets that retain the images of the animal.During the Edo period, it was believed to be evil and therefore theoretically forbidden to have a pair of zodiac animal and its the seventh in the zodiac calendar and compass system. Since this theory is contradictory to the belief of the nanatsume, some people seemed skeptical on the nanatsume superstition.Despite of its contradictory nature, the nanatsume belief proliferated especially during the An'ei and the Tenmei of the Edo period. Its popularity might stem from the rumor that TANUMA Okitsugu, a man of power at that time, practiced this nanatsume superstition. The family symbol of TANUMA was seven stars, and generally called "nanatsu'n'me" (seven plums). This is easily connected to nanatsume (the seventh), making the rumor plausible.The nanatsume belief produced a wide range of superstitions related to "seven". One of them says that a seven year old difference makes for a good couple and a good omen for a happy marriage.The nanatsume belief is merely a superstition. However, considering the fact that once it gained a great popularity to the point it became a social phenomenon, it requires special attention in order to understand the culture and society of the Edo period.
著者
腮尾 尚子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.77, pp.101-139, 1999-03-25

十二支・十二支獣に関する俗信の一種に、江戸時代後期に盛んに行われた「七ツ目信仰」がある。これは、自己の生まれ年の十二支から七ツ目の十二支――子歳生まれなら午――の動物を絵像にしてまつると、幸運を授かる、という俗信である。この七ツ目信仰は、現在すっかり廃れ、そればかりか、かつて存在していたという事すら忘れられている状態である。このため、七ツ目信仰を題材とした江戸時代の文学・美術作品の解釈をするのに、支障が生じている程である。本稿では、江戸時代後期における七ツ目信仰の実態を、絵画資料も活用しつつ、紹介するという事に重点を置く。七ツ目の支獣は、一種の神であり、その加護を受けるために、前述の七ツ目獣の絵像の他、七ツ目獣をかたどった家具や小物なども用いられていた。当時、月日や方位を表す十二支についての吉凶説では、ある支とその七ツ目の支の組み合わせを、縁起の悪いものとして断じていた。七ツ目信仰は、このような吉凶説と根本的にくい違うものなので、人々の中には、なぜ七ツ目の獣を礼拝するのか納得のいかぬ者もいたようである。しかし、このような矛盾点を抱えていたにもかかわらず、七ツ目信仰は、特に安永・天明期を一つの山として流行した。七ツ目信仰が人気を集めた原因としては、時の人であった田沼意次が七ツ目獣を信仰していると噂されていた事が挙げられる。田沼家の紋は七星を表す[黒丸×7個の紋様]であるが、これが別名「七ツ梅(んめ)」と呼ばれており「七ツ目(め)」を人々に連想させ易い素地をもっていた。隆盛した七ツ目信仰の辺縁には、生年の支が七ツ違いである男女は相性がいいという俗説も新たに生まれた。七ツ目信仰は根拠不明の俗信にすぎないが、これがかつて社会現象ともいえる程のブームを形成した事を考えれば、文化史上、現状の如く看過ごされていてよいはずはない。
著者
林 雅彦 腮尾 尚子 西岡 亜紀
出版者
明治大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2009

三年間の研究活動を通して、中世・近世期を中心に、日本から東アジア・ヨーロッパまでを広く視野に入れながら、名も無き大衆の生と死にかかわる真摯な信仰・俗信を反映した、多種多様な図像を発掘し、その意味を解読・分析してきた。3人の研究者が、それぞれの分野の資料を集めたうえで、同時代の宗教的なテキストや民衆文学などを用いながら、図像の起源や来歴や社会的な役割などを分析した。そして、そうした研究内容を研究者だけでなく、広く一般社会に向けて発信するため、三年目に、明治大学博物館において、企画展「民衆の図像展」を開催し、貴重な実物資料を展示・解説し、多くの観覧者を動員した。また、これ以外にも、多くの一般向け講座での講演、国際図像解読研究会、国際熊野学会他の学術会議、『国文学解釈と観賞』における数回の特集の他の出版物などによる社会還元を果たした。