著者
赤川 元章
出版者
慶應義塾大学
雑誌
三田商学研究 (ISSN:0544571X)
巻号頁・発行日
vol.40, no.4, pp.37-63, 1997-10-25

19世紀末から20世紀初頭にかけてドイツ資本市場のグローバル化は著しく進展し,とりわけ急速な産業発展によって大量の資金を必要としていたアメリカ合衆国との関係を深めていった。だが,この関係は,合衆国の鉄道証券に特化されており,この証券の取引に基づいて両国の銀行間の関係も形成された。本稿は,合衆国において最も積極的に証券業務を展開したDeutsche Bankの実例を通してドイツ大銀行の合衆国における活動および国内の証券取引所における合衆国鉄道証券の上場問題を実証的に分析しようとするものである。
著者
赤川 元章
出版者
慶應義塾大学
雑誌
三田商学研究 (ISSN:0544571X)
巻号頁・発行日
vol.34, no.6, pp.1-29, 1992-02-25

19世紀後半,オスマン帝国から独立したセルビアとブルガリアは,いずれも小規模営農中心の農業国であり,資本制的生産様式確立以前の原蓄段階にあるヨーロッパ後進国であった。両国は,農産物の輸出と工業製品の輸入とによって世界市場へと編成され,蓄積元本不足の下方,産業振興政策を採用したため,両国の工業化は,結局,急激な財政悪化とヨーロッパ先進国資本への依存を強めることとなった。これらの国では,通貨制度の整備と同時に,国家主導で中央銀行を創立し,農業主体の金融構造を形成する。だが産業金融については,国内資本のみでは不充分であり,この部面では外国銀行の進出が行われる。ドイツ金融資本は,セルビアにBerliner Handelsgesellschaft,ブルガリアにDisconto-Gesellschaftおよびその系列下のBanque de Creditの活動が行われたが,いずれの国でも,フランス銀行資本との競争でイニシアティブを確立しえなかった。
著者
赤川 元章
出版者
慶應義塾大学出版会
雑誌
三田商学研究 (ISSN:0544571X)
巻号頁・発行日
vol.50, no.2, pp.157-180, 2007-06

本稿は中国において活動したドイツ海外銀行,ドイツ・アジア銀行の発展を創業時の1889年から1913年に限定してその事業活動の側面について取り上げる。 まず,ロンドン金融市場と結合したドイツ・中国間の貿易金融システムを前提とし,銀本位制下の未発達な特殊な商業機構に根ざした中国の輸出入業務と銀行の貿易金融業務・外国為替業務・貸付業務との関連を考察する。次に,中国地域において行われた本支店5 営業店の銀行券発行業務を対象とし,その実態について固有の諸規定とそれらの特徴,および具体的な展開,さらに辛亥革命などによる影響などを分析する。また,国際銀行業の重要な収益源でもあった有価証券業務および借款業務を検討する。この業務はドイツ銀行界全体のシンジケートとして組織されたものであり,その主幹事として活動したドイツ・アジア銀行の保有証券および借款の内容を明らかにする。最後に,ドイツ・アジア銀行の主要資産5 項目,総資産利益率と配当率の推移を時系列的に追究し,同行の発展プロセスを数的に分析・確認する。商学部創立50周年記念 = Commemorating the fiftieth anniversary of the faculty論文
著者
赤川 元章
出版者
慶應義塾大学出版会
雑誌
三田商学研究 (ISSN:0544571X)
巻号頁・発行日
vol.51, no.1, pp.19-41, 2008-04

ドイツの中国近代化への嚆矢は,清朝政府によって北京天文台長官に任命されたシャル・フォン・ベルによるヨーロッパ暦導入の17世紀中期にさかのぼる。だが,ドイツ・中国間の経済関係が本格的に開始されたのは19世紀の中期以降であり,ハンブルクやブレーメンの商人が広東を出発点とし,やがて上海・香港・漢口・天津・青島など交通要所と沿海部の大商業都市に営業基盤を築いて活動した。 中国を中心とするアジアへのドイツの経済進出はまたドイツ帝国主義の対外政策の中に位置づけられて展開された。本稿は,この経緯を実証的に確認する作業から始め,次に銀本位制下の中国経済社会の未発達な金融・商業機構,その中で「外国資本の活動を補助する土着中間商人」としての買弁および伝統的な金融業者,銭荘について考察する。いわば,国際銀行が活動する歴史的・社会的背景について解明するのである。 そのうえで,1875年,ドイツ銀行の東アジアからの撤退以降,次第に増大するドイツと東アジア間での商業取引と同地域における信用供与の必要性から,ドイツ政府は「海外ライヒスバンク」の設立を発案する。この構想は挫折したが,1889年,ディスコント- ゲゼルシャフトが幹事銀行となり,紆余曲折を経てドイツ主要銀行の大半の参加によってドイツ・アジア銀行が設立された。この設立のプロセスについて最近の研究成果を踏まえて追究する。論文
著者
赤川 元章
出版者
慶應義塾大学出版会
雑誌
三田商学研究 (ISSN:0544571X)
巻号頁・発行日
vol.48, no.5, pp.221-246, 2005-12

本稿は,19世紀末以降,清朝時代に展開した欧米列強,とくにドイツの銀行業による中国への鉄道投資の分析を主要対象としている。まず,ドイツの中国鉄道投資に関して,初期段階の模索過程を検討した後,鉄道建設を推進するに当たって,イギリス銀行グループとの協調が不可欠であった状況を説明する。そのうえで,ドイツの係わった主要な中国鉄道の設立過程を中心に分析していく。第1は,ドイツのみが独自に認可された山東鉄道会社である。ここでは,株式の追徴払い込みや「享受権証券」などの資本調達の特殊性に言及しつつ,経営状態などにも触れる。第2は,イギリスと共同投資を行った「天津―浦口」鉄道である。ドイツの鉄道事業に関する意思決定機関の構成を明らかにした後,鉄道路線計画,借款分担,返済計画などを検討していく。第3は,国際銀行シンジケートが関与した湖広鉄道問題である。ドイツ・イギリス・フランス・アメリカなど各国の銀行が鉄道建設の利権をめぐって抗争するが,この錯綜する交渉プロセスについて,主にドイツ・アジア銀行監査役会の議事録から追求していく。故玉置紀夫教授追悼号