著者
鈴木 真輔 辻 正博 椎名 和弘 小谷野博正 小泉 洸 川嵜 洋平 佐藤 輝幸 山田 武千代
出版者
特定非営利活動法人 日本頭頸部外科学会
雑誌
頭頸部外科 (ISSN:1349581X)
巻号頁・発行日
vol.28, no.2, pp.183-190, 2018 (Released:2018-11-13)
参考文献数
12

クマ外傷は顔面を含む頭頸部に多いとされ,しばしば複雑で重篤な損傷を伴う。今回われわれが経験したクマ外傷13例について報告し,クマ外傷の特徴と治療における注意点を考察する。対象となる13症例はいずれも顔面に外傷を伴っていたが,10例では顔面骨の骨折が認められ,うち1例では頭蓋底骨折を伴っていた。頭頸部以外では上肢に損傷が多く,3例では上肢や体幹の骨折が認められた。また3例では出血性ショックを合併していた。顔面の皮膚欠損を伴った4例では皮弁や植皮による欠損部の再建術を要した。クマ外傷への対応ではその特徴を理解するとともに,それぞれの損傷部位に応じた適切で迅速な治療が重要である。
著者
辻 正博
出版者
Japan Legal History Association
雑誌
法制史研究 (ISSN:04412508)
巻号頁・発行日
vol.2005, no.55, pp.1-49,en3, 2006-03-30 (Released:2011-04-13)

本稿は、魏晉南北朝時代の聽訟と録囚について、擔い手と場所を手がかりにその歴史的意義を考察したものである。皇帝による聽訟は、魏の明帝が新たな王朝の權威を確立すべく、洛陽の聽訟觀で行なったものを嚆矢とする。兩晉時代になると聽訟觀では專ら録囚が行なわれたが、依然として皇帝大權を象徴する重要な建物であることに變わりはなかった。南朝では、華林園で皇帝が聽訟を行なうことが劉宋初期から定例化していた。頻繁に聽訟を行なった皇帝には、いずれも帝權の強化を指向した點で共通していた。劉宋末から南齊にかけて、皇帝による聽訟の場は中堂・閲武堂に移ったが、これも君權の確立・強化を目指した結果であった。梁の武帝は漢代的な司法のあり方の復活を企てる傍ら、録囚を制度化し、法官や近臣に委ねようと試みた。一方、北魏では當初、漢人官僚が聽訟の實務一切を委ねられたが、洛陽遷都後は皇帝自らが冤訟を受理・裁決するようになった。南朝と對峙する中で、大權を握る皇帝の姿を誇示する必要が生まれたのであろう。聽訟のあり方は、北周から隋にかけて大きく變貌した。皇帝は宮城で聽政に勤め、聽訟もそこで行なわれたのである。北朝の録囚は、災異説により旱魃對策として行なわれた。この背景には漢化政策の進行がある。北周以後、録囚と旱魃の關連は希薄になり、隋では録囚が定例化された。皇帝による録囚は、大理寺からの報告に應じて聽政の場でなされた。