著者
鄭 宰相
出版者
京都大学 (Kyoto University)
巻号頁・発行日
2010-03-23

新制・課程博士
著者
鄭 宰相
出版者
京都大学
巻号頁・発行日
2010

博士論文
著者
張 東宇 邊 英浩 鄭 宰相 JUNG Jae-sang
出版者
都留文科大学
雑誌
都留文科大學研究紀要 (ISSN:02863774)
巻号頁・発行日
vol.78, pp.45-68, 2013

これまでの朝鮮思想史の叙述において、17世紀は「礼学の時代」と性格づけられてきヒョン・サンユンた。この説を最初に言い出したのは、おそらく玄相允の『朝鮮儒学史』(1949)であろう。玄相允の『朝鮮儒学史』は、植民地時代以降のものとしては、最初の朝鮮儒学通史であるが、そこでは朝鮮儒学の流れを「至治主義儒学→性理学→礼学→経済学(実学)」と述べている。この捉え方は、後の研究に大きな影響を与え、朝鮮時代の儒学は「16世紀=理学、17世紀=礼学、18世紀=実学」のように展開したもの、という「理解・知識」として定着テゲユルゴクする。つまり、16世紀における退渓学派と栗谷学派の性理学に対する見解の差が、17世紀において礼学に対する見解の差を生み出し、栗谷学派に属する西人は『朱子家礼』を中心とする礼論を、退渓学派に属する南人は古礼中心の礼論を展開した、という見方が朝鮮思想史ないし礼学史の叙述においてほぼ通説となっているのである。例えば、韓国精神文化研究院で刊行された『韓国民族文化大百科事典』(全28冊)の「礼訟」の項目をみると、「栗谷学派である西人=家礼中心=守朱子学派」対「退渓学派である南人=古礼中心=脱朱子学派」という図式で説明がなされている。『韓国民族文化大百科事典』は研究者をはじめ一般人もよく利用する事典であるため、この図式的な理解は一般的な認識として根強く広まっている。17世紀の思想史・礼学史に対するこのような理解は、18世紀の朝鮮思想史の理解にもつながり、18世紀を「実学の時代」と規定し、「南人」系列の学者に焦点を当てながら、実学を「脱朱子学的」学問として位置づける言説と密接に結び付いている。このような状況の中で、17世紀の朝鮮思想史・礼学史に対する従来の研究に問題を提起し、新しい見方を提示する研究者たちが近年現れている。本稿の著者である張東宇氏(韓国、延世大学校国学研究院研究教授)もその一人である。氏は、朝鮮時代の代表的な思想タサンチョン・ヤギョン家の一人である茶山、丁若 の礼学の研究で博士論文(『茶山礼学の研究―『儀礼』「喪服」篇と『喪礼四箋』「喪期別」の比較を中心に』延世大学校、1997年)を著して以来、長年朝鮮礼学の研究に取り組んできた韓国の学者であるが、特に近年は朝鮮時代の『朱子家礼』関連著述の研究を精力的に行っている。本稿で氏は、朝鮮時代の『朱子家礼』関連著述に対する書誌学的な調査・分析を通じて、朝鮮における礼学の展開は、『朱子家礼』の研究が始まった16世紀後半から18世紀にいたるまで、「古礼による『朱子家礼』の補完」という共通の問題意識をもとに、学派の相違を超えて「蓄積的に進展された単一な流れ」であると結論づける。また「礼学の時代」といえるのは、17世紀であるというより、むしろ18世紀であるという見解を示す。これまでの朝鮮礼学の研究は、主に17世紀の服制論争(礼訟)史料を中心に行われてきたわけであるが、著者は朝鮮礼学史における家礼関連資料の持つ重要性を提示し、朝鮮礼学史の叙述は礼訟にとどまらず、もっと広い見地から捉えるべきであることを示唆しているのである。朝鮮礼学史への新しい視点を提供し、従来の朝鮮思想史の理解に反省をうながしている点で、著者の問題提起と結論は非常に大きな意味を持つものと思われる。また本稿で整理された膨大な量の『朱子家礼』関連著述リストは、朝鮮礼学史の研究のみならず、今後、中国・日本・ベトナムなど、東アジア各地における家礼文化の比較研究の基礎資料として活用できるものと期待される。翻訳は鄭宰相(京都大学講師)が草案を作成し、邊英浩(都留文科大学教授)が点検し責任を負うこととした。なお本稿は筆者が、科学研究費補助金(基盤研究(A))研究「東アジアにおける朝鮮儒教の位相に関する研究」(研究代表者:井上厚史島根県立大教授)の一環として弘前大学で行なわれた国際ワークショップ(2012年8月29~30日)において報告したものを加筆、修正したものである。It has been said that the two opposite stances exist in Choson scholars' studies on FamilyRituals of Master Zhu (Zhuzi Jiali 朱子家禮). Unlike the previous understanding of theirreconcilable difference between Yulgok 栗谷school and T'oegye 退溪school, this articleunveils their common consent that they endeavored to complete Zhuzi's Family Rituals inaccord with the ancient ritual principles. On the ground of such agreement, Ritual Studies ofthe two schools had interacted with each other, mainly in respect of three aspects : practiceof rituals (haengnye 行禮), interpretations or exegeses on those practices, and provisional/^ extraordinary rituals without clear manuals in the canonical scriptures (byollye 變禮).^ Through exploring extant 198 works of Choson Ritual Studies in the 15th to 19th centuries,this article shows the patterns of their evolution and interrelationship.