著者
土生田 純之 酒井 清治
出版者
専修大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2000

本研究では古墳時代東日本の渡来系文化が西日本にさほど遅れることなく導入されていたとの認識のもとに、実体・その後の展開の解明にあたった。その結果、渡来系文化の導入地については面的というより点的な分布を示すこと、その後在来文化の中に吸収・解消されて実体がなくなるものの他に、永く影響を与えて残存するものなどが見られた。このうち、渡来系文化の受容地が面的ではなく、点的な広がりにとどまるという点については、西日本が概ね前者の形態をとることに対する大きな相違といえ、このことがこれまで当地の渡来系文化の受容に対する(著しく受容が遅れるという)誤解を生んだのではないかと思われる。また点的な分布の中でも長野盆地では前代の弥生時代から渡来系文化の受容が引き続いており、日本海を通じた直接的な交流も想定される。これに対して積石塚や竈付き住居に見られる渡来人の存在については、自由な往来と言うよりも、在地権力の規制のもとでの移動・定住が想定された。しかしこうした在地権力の動きが畿内のより大きな権力の影響下にあったものか、それとも各在地権力自身の自発的な活動によるものかまでは明確にできなかった。総じて渡来系文化の受容はこれまで考えられていたよりも相当遡上した時期に始まること、しかしその分布は点的な存在にとどまり、在来文化の中に吸収・解消されることの多い点が西日本との目立った相違といえよう。また明確に渡来系文化の継続的な導入が認められる北限は仙台平野であり、直接的導入の濃密な北限は福島県郡山盆地が考えられる。
著者
酒井 清治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.165-194, 1993-02-26

武蔵国は,宝亀2年(771)に東山道から東海道に所属替えになった。東山道に所属した時期には,「枉げて上野国邑楽郡より五箇駅を経,武蔵国に至る」とあり,上野国東部から武蔵国府へ向かったのであるが,そのルートについては先学により論議されてきたところであった。近年の発掘調査の進展により,武蔵国府の西から国分僧寺,尼寺の間を3.5kmに亘って北上する道が確認され,さらに所沢市東の上遣跡でも道路跡が発掘されるに到り,この道が,東山道武蔵路と考えられるようになってきた。しかし,現段階では駅家が発見されておらず,そのルートも不明確な状況であることから,考古学資料あるいは文献資料によって,推定ルートと,その道の歴史的背景を探ろうとした。この道は文化交流,物資の運搬,人の移動に利用されたようで,道路跡の付近には関連遺跡,遺物が多い。特に武蔵国分寺の創建初期の瓦が,上野国新田郡,佐位郡との関連で焼造されたこと,熊谷市西別府廃寺では一部であるが武蔵国分寺瓦を使用することは,この道を介して行われた交流の代表的な事例である。また,西別府廃寺付近の奈良神社は,8世紀初頭には陸奥への征夷に赴くときの祈願場所として信仰を集めたようで,東海道の鹿島神宮などと対比される位置にあろう。発掘された道路跡の特徴は幅12mを測り,側溝を持つ直線道であること,東の上遺跡から,時期が7世紀中葉あるいは第3四半期まで遡ることが判明した。特に道幅が大路である山陽道に匹敵することは支路と考えるには問題があり,また,大宝元年(701)の駅制成立の時期よりも遡ることは,道の築造が,当時の朝鮮半島の緊迫した社会情勢と関連していたと考えたい。おそらく,対新羅,対唐に対応するための軍事的道路であり,一方は内政に目を向けた,北への勢力拡張政策のための道であろう。すなわち,当初は上野国府と武蔵国府を直接結ぶ政治的道路ではなく,東山道と東海道の連絡路である軍事的道路として築造されたと推考したい。