- 著者
-
酒井 清治
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.50, pp.165-194, 1993-02-26
武蔵国は,宝亀2年(771)に東山道から東海道に所属替えになった。東山道に所属した時期には,「枉げて上野国邑楽郡より五箇駅を経,武蔵国に至る」とあり,上野国東部から武蔵国府へ向かったのであるが,そのルートについては先学により論議されてきたところであった。近年の発掘調査の進展により,武蔵国府の西から国分僧寺,尼寺の間を3.5kmに亘って北上する道が確認され,さらに所沢市東の上遣跡でも道路跡が発掘されるに到り,この道が,東山道武蔵路と考えられるようになってきた。しかし,現段階では駅家が発見されておらず,そのルートも不明確な状況であることから,考古学資料あるいは文献資料によって,推定ルートと,その道の歴史的背景を探ろうとした。この道は文化交流,物資の運搬,人の移動に利用されたようで,道路跡の付近には関連遺跡,遺物が多い。特に武蔵国分寺の創建初期の瓦が,上野国新田郡,佐位郡との関連で焼造されたこと,熊谷市西別府廃寺では一部であるが武蔵国分寺瓦を使用することは,この道を介して行われた交流の代表的な事例である。また,西別府廃寺付近の奈良神社は,8世紀初頭には陸奥への征夷に赴くときの祈願場所として信仰を集めたようで,東海道の鹿島神宮などと対比される位置にあろう。発掘された道路跡の特徴は幅12mを測り,側溝を持つ直線道であること,東の上遺跡から,時期が7世紀中葉あるいは第3四半期まで遡ることが判明した。特に道幅が大路である山陽道に匹敵することは支路と考えるには問題があり,また,大宝元年(701)の駅制成立の時期よりも遡ることは,道の築造が,当時の朝鮮半島の緊迫した社会情勢と関連していたと考えたい。おそらく,対新羅,対唐に対応するための軍事的道路であり,一方は内政に目を向けた,北への勢力拡張政策のための道であろう。すなわち,当初は上野国府と武蔵国府を直接結ぶ政治的道路ではなく,東山道と東海道の連絡路である軍事的道路として築造されたと推考したい。